原野辰三の社会評論エッセイ
旅の愉しみ
「海が見えた、海が見える。五年ぶりの尾道はなつかしい。」
林芙美子の小説放浪記の一節である。
わたしが尾道にはじめて行ったのは、20年前。当時銀行の検査部に在職していた頃だ。
銀行の検査は全国各地の、支店を臨店する。支店の大半は東京、大阪に集中しているが北海道から九州まで支店がある。だから地方支店の出張もあった。
わたしは、某銀行を定年退職し、某大手小売業に再就職した。
再就職した某大手小売業は全国に約500の店舗網がある。
銀行は大阪東京に支店が集中していたが、某小売業はロードサイドビジネスだから、郊外に店舗があり、都心よりその周辺都市や地方都市に店舗が多い。
そんなわけで、わたしは銀行に引き続き、日本全国に出張旅行することが多かった。まだ一度も足を踏み入れたことがない県は、青森、岩手、秋田、福島、高知、沖縄の6県。
生きているうちに残る6県全部を踏破し,満願したいと思っている。
出張は仕事だから、物見遊山ではない。しかし旅行の一つで、その思い出はいろいろとある。
いま振り返ると、仕事で出張したのに何故か仕事のことは全く思い出せない。
あそこのあれがうまかった。あのお寺が、あそこの紅葉が、と言う具合で、やはり食べ物とか景勝とか温泉などなど。
とくにその地の方言がよい。方言で話されると人情を感じる。
わたしは出張中、同僚とお店で夕食することもあるが、アルコールは一切ダメ。相手にとってはつまらないだろう。
だから、ホテルの近くでお惣菜などを買い揃え、ホテルの部屋でテレビなど見ながら夕食をすることにしていた。
博多のときも、例によって、デパチカの食料品売り場に毎日通った。そのうち、売り場のおばさんと顔見知りになり、常連客になった。
ある日、そのおばさんから「あなた、ハカチョンね」といわれ、なんのことか分からない。
聞きなおすと「博多チョンガー」の略だった。単身赴任者という意味だ。どっちにしてもその地の人との会話が楽しい。
「和そば」は小千谷そば(新潟県のおじや)がうまい。残念なことに地震で大被害をうけた。心配だ。帯広のそばもうまかった。大分の城下かれい、鹿児島のさつまあげ、と山川漬け。札幌で食べた「じゃがもち」(ジャガイモで作ったもち)はめずらしい。富山の蛍いかや、いかの黒作りは絶品だ。音戸の瀬戸(広島県呉市)の牡蠣は格別だった。
なんだか食べ物の話ばかりになった。人間はやはり死ぬまで食い気だけは衰えないものだ。
呉では海上自衛隊の潜水艦に乗せてもらって感激した。呉は戦前から軍港があり、江田島の海軍兵学校は有名。
その跡地に現在の海上自衛隊がある。そこでトイレを拝借した。
昔の木造のいわゆる便所だ。そこに書かれた落書きを見て苦笑した。戦争中の海軍兵学校の生徒が書いたらしい。
その落書きは
急ぐとも心静かに手を添えて外に漏らすな松茸の露
と言う五七五七七の歌だった。なんとユーモラスな落書きではないか。
私は小学校2年生のときに縁故疎開した。疎開先は富山。富山県婦負郡八尾村である。
銀行検査で富山支店に臨店したとき、ホテル隣の喫茶店ママに、私が疎開していた話をした。彼女は日曜日にわざわざ車で、その八尾まで連れて行ってくれた。
―やお、でなく”やつお”と読む。越中おわら節で有名。nhkで、“風の盆“という題のドラマがあったがこの八尾が舞台―
45年ぶりにその家を訪ねた。藁葺きの大きな田舎の家屋は昔のまま残っていた。しかしそこに住む人は当時の人ではなかった。
八尾は富山市から高山本線にのって一時間ぐらいの距離。
冬は雪深い寒村である。その家は小高い山の中腹にあった。
疎開中、終戦まじかの初夏だったと思う。夜突然、従姉に起こされた。
外に出て見ると、眼下に富山市が一面、真っ赤な火に染まっていた。米軍の焼夷弾爆撃で不二越工場(当時の軍需工場)が狙われたそうだ。
八尾の懐かしい思い出とともに、その光景が蘇った。
地方出張はそれなりに勉強になる。とくに銀行の場合、地場産業との取引状況がわかる。そして時代の変遷がよくわかる。
かって栄えた町でも、閑散としてしまっている町もある。例えば岐阜は毛織物の町である。岐阜市は背広の問屋街、一宮市は服地の生産地。どちらも落ち込んでいた。
新居浜市は別子銅山が閉山になり、アルミ工場も閉鎖され、町の何百米も続く商店街は犬一匹歩いていない。
わたしは仕事のお陰で日本全国を旅行できたが、そのなかで、もう一度是非行ってみたいところを一つだけあげよ、といわれれば、「尾道」と答える。
はじめて行った時期もよかった。丁度、桜が満開のときだった。千光寺の桜は美しい。
わたしは私が尊敬する先輩のt氏を見習い、出張するときは必ずといって、その地にまつわる小説をもっていった。そして、現地のホテルで寝る前に読むことにしていた。
尾道には林芙美子の放浪記と志賀直哉の暗夜行路を持参した。その2冊とも高校生のときに読んだきりで、それ以来であった。
改めて読んだ。それもそこに書かれているその地の情景をその地で読む。作者を追体験ができる。これまた一興である。
暗夜行路には「千光寺の鐘が、ごーんと一つ、また一つ」というくだりがある。私が宿泊しているホテルは千光寺に近く、まさに千光寺の鐘が、ごーんと鳴っている。
放浪記の一節には冒頭で記したように、「海が見えた、海がみえる」とある。
尾道はJR線が尾道水道に沿って、海岸線の間際を列車が走っている。尾道が近くなると、車窓から海がみえてくる。
JR(在来線)の尾道駅の改札をでると、すぐ商店街がある。海岸に沿って長く続いている。
その入り口に「芙美子」という喫茶店がある。その家屋の前面は喫茶店になっており、奥の部屋の二階に芙美子と母が間借りをしていたそうだ。
芙美子はその間借りから尾道高等女学校に通っていた。その建物は記念として大事に保存されている。
尾道の街は小高い山が海岸近くまでせまり、東西に長い。そして、山の中腹には名刹がところどころに海を見下ろすように鎮座している。
わたしの関西育ち風にいうと、丁度”古都の京都”と”港町の神戸”を合わせたような風情の町である。
小高い山の斜面には家々が立ち並んでいる。山の斜面に平行して道路が走っている。
斜面から下るように、適度の間隔で石段道がある。その家に住む人々はその石段を上り下りして生活をしている。
その石段道は車はもちろん自転車も乗れない。バリアフリーに頑固に抵抗しながら、人と暮らしの歴史を語っているようだ。
その家並みの一軒家に志賀直哉が住んでいた。その家が記念館として大切に残されている。千光寺の近くである。
志賀直哉は暗夜行路を千光寺の鐘を聞きながら書いたのであろうと想像した。
尾道駅の前はすぐ船着場で、フェリーボートが頻繁に出入りしている。船着場の目の前は向島。距離にすれば100メートルぐらいなものである。
朝は島から通勤の人たちや高校生たちがフェリーから自転車をおして一斉に上がってくる。地元の人たちにとっては日常だろう。しかし毎日満員電車から吐き出されて通勤している都会暮らしの私にとって、この光景は非日常的で、眺めていて嬉しくなる。
私が宿泊にしていたホテルは海岸べりにある。窓から瀬戸内海が眺望できる。島々が大小点々と四国へ向かって連なっている。おもわず「瀬戸の花嫁」を歌いたくなる。
とくに夕日の逆光に影絵のように映える瀬戸内の島々は絶景だ。時間を忘れさせてくれる。
早朝は、船着場を起点にして道路の側道は、魚の朝市になる。おばさんたちが魚を前にづらりと並ぶ。注文すると、その場で魚をさばいてくれる。
目の前の向島には造船所がある。尾道造船所だ。私が行ったときは造船不況だったが、昔は盛況だったらしい。
私が勤務していた銀行は明治に大阪に本店ができた。順次支店を開設していった。
その順番は経済活動が活発な地盤地域に順じて開設する。尾道支店はなんと第4番目というから、今を考えると信じられない。それほど経済活動が盛況だったのである。
当時は対岸の新居浜市にある別子銅山から銅が盛んに採掘されていた。精錬するには石炭が大量にいる。
石炭を九州の炭鉱から鉄道で尾道まで運ぶ。尾道からは船で新居浜まで運ぶ。帰りの船には銅を積み、尾道で陸揚げされ、そこから全国に銅が貨物列車で輸送される。
このように歴史をなぞると、いまは新居浜も尾道も日本経済活動の中心からはずれた街になっているが、当時の活況がしのばれる。
尾道支店は商店街に中程にある。旧いが西洋風の建築である。
昭和天皇がご来店され、そのときにお掛けになった椅子が今も大事に保管されている。
いずれにしても尾道は歴史を感じさせる情緒豊かな美しい街である。
尾道支店のごく近くに「桂馬」という評判のかまぼこ屋がある。とってもうまい。ただし、限定製造だから、午前中に注文しておかないと買えない。
また、この海でとれる「ぎざみ」という魚は魚嫌いの私を魚好きにしたほどうまい。
いずれ近いうちに、もう一度尾道に行ってみたい。そして、瀬戸内の夕日を眺め、千光寺の鐘の音を聞く日が待ち遠しい。
銀行にも小売業にも、職務の基本に「現地現場主義」というのがあった。
いってみれば、
百聞は一見にしかず
である。
「現地・現場・現物主義」が意外にも旅行に役立った。
旅行の最大の悦びは、おそらく事物の変遷に対する驚嘆の念であろう
(スタンダール フランスの作家)










