原野辰三の社会評論エッセイ
日は昇り、日は沈む
日本人の意識構造
ここで、ある映画の話をしたい。1957年に十二人の怒れる男という有名なアメリカ映画が公開された。あらすじはこうです。
ある少年が殺人犯として裁判をうける。米国では陪審員制である。陪審員12人が選ばれ、陪審が始まった。そして第一回目の採決が行われた。11対1の圧倒的多数でその少年は犯人という判定になった。反対した1人が次のような意見を述べた。「状況から見て、その少年が9分9厘犯人であるようだ。しかし、ただ1点だけ疑問が残る、その点を解明できていない。その疑問が解けない限り、犯人と断定しがたい」という。そこから延々と熱い激論が展開され、議事が繰り返され、回を重ね、10対2,9対3,8対4・・と。とうとう最後には12対0で全員が無罪の評決したのである。
この映画の批評は批評家にまかせて、とにかく私は大変感動した。そして私はこれこそ人を裁く真正な姿だと深い感銘をうけた。
また別の感慨をもった。それは民主主義の原理原則はこれだと思ったのです。日本人は民主主義=多数決と思っている。それはとんでもない誤解です。
民主主義の原理は「少数意見」をあくまでも尊重し、議論に議論を重ねたすえに、採決を行う。そのときにはじめて多数者の意見を採用する。これが真の民主主義だ。
日本ではまだまだ民主主義が幼稚で成熟していない。民主主義の型、体裁をとっているが形骸化された民主主義である。少数意見を封殺するのは民主主義の根本に背いている。
国会を見ているとそれを如実に感じる。まともに議論はしない、議論は尽くさない、説明責任は果たさない、少数派の発言権を抑圧したり、時間制限をしたり、議事にも加われなかったり、要は多数の独壇場である。
多数者が絶対正義であるというのです。大政翼賛選挙・議会を真っ向から批判した有名な政治家尾崎行雄(咢堂)氏は
議事堂は名ばかりで、実は表決堂である
と現行憲法以前にもかかわらず非難した
わが国の国会等の現実を見ていると、選挙が終われば議会はただ数合わせの場所であって、議論なんかは無用の長物なのです。
いまだに尾崎咢堂のいう表決堂なのだ。それは議会だけの問題ではない。職場、学校、町内会等々身近なところでみられる日常茶飯事のことです。
つまり、日本人はどちらかといえば、周囲を見回し多数派がどっちかを見極めてから態度を決める。風見鶏で日和見主義。一旦多数派になれば、問答無用。少数意見を頭から否定する。少数者を悪と決め付けてしまう。
多数者が権力となり、権力者には従順で、権力者に擦り寄ってゴマをする。泣く子と地頭にはかなわぬと、長いものには巻かれる。
仮に十二人の怒れる男が日本であったなら、第一回目でその少年は死刑になっていただろう。








