原野辰三の社会評論エッセイ
人間性利説
資本主義文明社会とは
「見えざる悪魔」のマネーは、戦争や地球環境破壊のほかに、どんな悪を働いているのかを見ていきたいと思う。ここで代表的な悪を紹介しよう。
まず、エイズ禍について考えてみたい。アフリカ等の発展途上国には約5000万人のエイズ感染者がいる。エイズ治療には欧米では一人当たり年間100万円費用がかかると言われているが、アフリカ等の貧困国では年間の治療費は一人当たり1000円程度しか負担できない
アメリカ、イギリス、スイス、ドイツなど製薬会社は特許権によってエイズ治療薬を製造販売して巨額の利益を得ている。
それなのにアフリカなどが求めている安価に製造できるコピー治療薬は製造販売使用を一切認めない。製薬企業の言い分は巨額の資本を投下して開発した治療薬を、やすやすとコピーされては投資した意味がなくなる。
企業は社会福祉ではないというのである。資本の論理からいえばそうであろう。ここに資本主義の資本主義たる所以があり、資本による独裁的本質が見えるのである。
資本の論理・企業の論理は人命よりも企業の利益が大事であり、社会正義などは邪魔になる。金がなければ助かる命も助からないのが資本主義社会である。
もう一つアスベスト禍について述べてみたい。
アスベストは早くから野党(多分その当時の社会党)が禁止法案を国会に提出していた。
ところが与党は審議もしなかった。理由はアスベストの「経済性と代替品の不経済性」だった。国会が企業の論理を優先したのである。アスベスト禍は約30年後に発症する。ここにきて多くの死亡例が確認され、その被害者が続々と出てきている。
憲法には「国民は健康で文化的な生活をする権利を有する」と条文にうたっている。憲法の精神より、業界の利益を優先する「多数」が国会を制している。多数決原理の民主主義議会で禁止法案が葬り去られたのだ。「多数」の結果だから国民はどうしようもない。ここに民主主義の不可思議がある。
なおヨーロッパではアスベストの危険性を早くから認識して禁止していたことに鑑みれば日本の民主主義の幼稚性が覗える。
-以上のように、マネーという悪魔が人間の生存本能に根ざす「利的志向性」を刺激し、翻弄し、増殖させ、操る資本主義文明社会は、人の命が軽視され、企業の利益を重視する社会であることが明らかに分かると思う。
私は資本主義社会を批判する。すると世間一般は、必ず「では、お前は社会主義者か」と、まるで異端者のように非難する。私は社会主義者でもなければ、特別の思想や宗教とは一切縁がない。しかし固定観念や先入観、あるいは常識のメガネは掛けたくないと、いつも心がけて生きている唯の親爺である。
「お前は社会主義か」と嘲笑気味に決め付ける社会風潮には、それ相当の理由がある。まず、ソ連邦その他の社会主義諸国が悉く崩壊し、冷戦構造の終焉によって全世界が資本主義一色になった。そして「社会主義は間違っていたということ」が世界の常識になったからであろう。
ここで社会主義国家が崩壊した事由について、私なりの見解を述べておきたい。
結論からいうと、ソ連型社会主義が崩壊したのは自明の理である。マルクス・エンゲルスの理論によると、「社会主義は資本主義社会が発展し成熟した末に生まれる」としている。
ところがロシア革命で社会主義国家が誕生したのは、封建制の帝政ロシアだった。資本主義社会を経験もしていない国に社会主義を持ち込んだのである。しかもその中身は一党独裁の全体主義・官僚主義社会で、自由も制限されている。このような社会は崩壊して当たり前である。
また東西が対立した冷戦構造の二極化世界にあって、資本主義か社会主義かという二元論が長く続いていた。その片方の社会主義が崩壊したから、選択肢がなくなった。その結果資本主義が絶対化されたのである。資本主義社会が絶対化された今日では価値観も一元化され、「資本の論理」だけが支配する。
では、資本主義社会とは一体どんな社会なのだろうか。改めて考えてみたい。
一言でいえば、「利」すなわちa−b=cのcである。簿記的にいえば原価と売り値の
「差額」のことで、「差」の「利」を追求する社会である。
資本主義社会は販売業、製造業、サービス業、金融業等々の業種を問わず、すべて利潤を目的とした企業が活動する社会であり、人間はその中で関係づけられ、労働して生活の糧を得るシステムの社会である。また、営業活動、職業選択、移動など、すべての自由が保証された社会である。自由主義は資本主義を成立させている絶対要件であり、資本主義は自由主義によって支えられている。
そこで資本主義の歴史をもう一度フランス革命の原風景を思い出してもらいたい。
とくに私が強調したいのは、自由は人間にとって貴重なものであることには違いないが、資本主義を開花させた自由主義闘争の原点は「営業の自由」であった。つまり金儲けの自由であり、自由の発揚の原点は資本の論理であったという点である。
現代資本主義における自由と民主主義を採り上げて述べようと思う。まず自由の問題から採り上げてみたい。
先だって、ブッシュはイラク帰還兵を前にして、“freedom”を50回も叫んだ。イラクへの戦争を「自由の戦い」と大宣伝して誤魔化しているようだ。また、米国のグローバリゼーションを強力に推進するために、競争の"自由"をことさら強調している。
はたして米国ブッシュのいう自由は本当の自由だろうか。自由とは我が儘のことではない。自由には範囲があり、範囲の中での自由である。
自由には自ずと制限があるということだ。つまり戒律を必要とする。自由を大切にし、自由を守るには、自らに厳しい戒律を課す必要がある。道徳的な言い方だが、他人に迷惑を掛ける自由、他人を不幸にする自由はないのである。
正しい自由とは万人に共通の利益と福祉をもたらすものでなければならない。と同時に相手の自由も尊重するものでなければならない。
ところが、時の為政者は自由を恣意的にする。為政者にとって利益になることは"自由"だとし、不利益になることは抑圧する。
自分の利益のために特定のものの利益をはかり、自分が不利益になることは自由を認めず、また相手に自由を強要するブッシュのいう自由は、まさに資本の自由、強者のための自由である。
さらにいえば自分(自国)の欲望のためなら、手段を選ばず暴力(武力)をもってでも、奪う自由である。イラク戦争はそのことを如実に物語っている。ブッシュが50回も自由を叫んだのは、イラクの「石油を自由にしたい」と叫びたかったからだ。
また地球環境について京都議定書を否定するブッシュの自由は「経済優先」が何よりの証である。2001年4月12日付の読売新聞は「論点」で「京都議定書拒否、米は利己的 」と題して「世界の温室効果ガスの四分の一を排出し続ける米国の大統領が京都議定書を否決したことは、超大国のリーダーにもふさわしくないエゴイスティックな決定」と批評している。
ブッシュのいう自由とは強者の自由とエゴな自由を他の国に押しつける自由なのだ。しかし、よく考えてみると、自由の歴史の原点は営業の自由、つまり金儲けの自由を求めて立ち上がったのだから、ブッシュはその原始的自由主義者であって、崇高な人権思想とは縁遠いエゴな自由である。
いまブッシュ政権を支えるネオコンの新自由主義者たちがなかば強圧的に推し進めているグローバリゼーションは、資本の独裁によって世界を支配しようとする危険なものである、資本主義社会における自由とは強者のエゴな自由主義であることを強調しておきたい。
次に民主主義について考えてみたい。鷲田小彌太氏(哲学者、札幌大教授)は「現代思想がわかる事典」(日本実業出版社)に「民主主義の諸相」と題して「民主主義は妖怪である」そして「不思議な民主主義」と述べているので、その一部を要約して引用する。
民主主義は永遠の『妖怪』である。かつてマルクス・エンゲルスは『共産党宣言』で共産主義を当時のヨーロッパを徘徊する妖怪であると語ったが、ある意味で民主主義は共産主義よりも厄介な妖怪である。・・中略・・・民主主義はどこでも顔を出す。家庭の中にも、学校の中にも、会社の中にも、どんな組織や集団、そしてもちろん国家や国連の場においても。しかも、それぞれ微妙に異なった顔つきで。
しかし、名前は同一の『民主主義』として大きな顔をだす。だが、普通の人はそれが『妖怪』だなどと露も思いはしない。あたかも、空気を吸い、水を飲むのがごく当たり前のように、『民主主義』を口にするのは自然な権利か義務であるかのように振舞う。
ところが、政治学者や経済学者や社会学者や哲学者のような知的専門家(プロ)たちは、昔から、民主主義に否定的な態度をとってきた。民主主義について深く考えたことのない普通の人々の場合は、民主主義は人間社会を正しく導くルールであると学校で教えられ、かつそのように思い込み、時にはそのルールが曲げられることはあっても、大方そのルールにそって社会は運営されていて、民主主義を否定することなどは思いも寄らない。
ただ、まれに、民主主義は間違ってはいないのだろうが、どうも釈然としないところがある、と感じている。そこで人間の歴史を少しひもといてみると、民主主義の名の下に大きな愚行が繰り返されてきた事実を知ることになる。
そして、例えば、自国の政治の舞台で繰り広げられる事態が民主主義とどこでどうつながるのか、にわかには分からない茶番劇のような権力椅子とりゲームに見えてきたり、あるいは、もっと身近な集会や会議の場で、声の大きさや押しの強さや、形式的な多数決で、物事が決定されていく事態を目の当たりにして、民主主義はどこにあるのか、と思わず叫んでしまいそうになったりする。
とにかく、関係者がその場に居合わせ(参加して)てさえいれば、民主主義の大原則は満たされ、あとは少々力ずくであったり、形式的であったりしても、時間の制限もあることだし、ほかに仕方がないのだと納得するしかない雰囲気がある。平等という観点から少数意見は尊重されなければならないはずだが、実際には、数の力の前に押しつぶされるのが普通である。
『赤信号、皆で渡れば怖くない』というジョークは民主主義の一面を鋭くついたブラック・ユーモアなのである。実際に、民主主義であるはずの日本に住んでいる者は、赤信号で立ち止まる少数者がなぎ倒して進む反民主主義的光景を目にしない日はないといっても過言ではない。にもかかわらず、いまだに多くの普通の人々は民主主義の正しさがどこにあるか考えてみようとはしない。
なぜか。それは、民主主義を少しでも疑う素振りを見せることが、表向きにははばかられるような、民主主義の呪文をかけられた世界を私たちはいきているからだ。もちろん、その中では、反民主主義的な言動が露骨に飛び交っている。このパラドキシカルな現代社会の様相は、全体として、民主主義そのもののパラドキシカルな、言い換えれば正しく妖怪的な本性を正確に反映しているのである。
以上のとおり少し長くなったが、鷲田氏は私が言いたかったことを、上手く説明されているので引用させて貰った。
私は民主主義の妖怪性を別の観点から述べてみようと思う。結論から先にいうと「民主主義の妖怪性は多数決原理にある」と考えている。つまり多数決の「多数者」はどういう人々のことか。その中身が分かれば、民主主義の不思議さと妖怪性が分かる。
このことについて私はすでに述べている。つまり団体翼賛選挙による団体翼賛政治だから民主主義が妖怪になっているのだ。資本主義社会は企業すなわち利益共同体で構成された社会であり、人間はどこかの利益共同体に帰属している。そこから生活の糧を得て生きているから、利益共同体は運命共同体でもある。その利益共同体に人間は管理されているものの、その利益共同体の利益になるのであれば、それには協力し賛同する。
自分が有利になることを選ぶ大勢が「多数」を占める。また国民は利益共同体に帰属して生活しているので、社会の論理より、企業の論理を優先し、市民意識がなくて企業意識だけがある。言ってみれば資本主義社会では市民も国民もおらず、利益共同体の構成員しかいない。
したがって市民でありながら、市民の顔が見えず、国民でありながら、国民の顔が見えないという奇妙な社会になっている。市「民」、国「民」の顔がなく、「業」の顔だけがある。いわば「業」主主義だから「民」主主義が妖怪なのである。よく民主主義を「衆愚政治」というが、私は資本主義経済社会における民主主義を「利欲政治」とよんでいる。
本来民主主義政治は利害を調整し、人間平等主義を実現する機能を果たすのだが、利己主義者の烏合の衆が多数を占めているから、民主主義が利欲政治の妖怪になるのである。
人間の「利的志向性」が資本主義の発展を促進し、自由を昂揚させ、自由の勝利が資本主義を開花させた。こうして発展した現代は資本主義・自由主義・民主主義を統合形成したイデオロギーの社会、つまり現代の資本主義文明社会は、人間の「利的志向性」がつくりあげたものにほかならない。
ところが皮肉なことに、人間の「利的志向性」がつくり出した現代の資本主義文明社会が諸悪の根源になり、人間が操られ苦しめられているのである。
では何故人間はそれに気がつかないのだろうか。私は次のように思う。
資本主義・自由主義・民主主義の共同のプロパガンダが奏功して、人間は下記のとおり操られていると考えている。
- 社会主義が崩壊し、自由と民主主義を二枚看板にしている資本主義が正当化された。そして世界は資本主義一色になり、資本主義を絶対化した。
- 資本主義は自由競争と市場原理至上主義を謳い、「努力する人間が報われる社会」という「にんじん」に操られている。
- 資本主義を美化する看板の自由主義は、資本の自由と独占を正当化する手段で、強者を支援し、弱者を切り捨てるエゴイスティックな自由の欺瞞性に誤魔化されている。
- 資本主義を美化するもう一枚の看板の民主主義は、人間を利益共同体(企業など)の中間管理組織に組み込ませる。その「利益共同体」(たとえば企業、労働組合、日本歯科医師会、ライフル協会(米)、畜産組合(米)等々)の利害と一致すると「錯覚した多数の人間」つまり、市民でも国民でもない利益共同体の構成員によって政治が動かされている。
いずれにしても資本主義は「悪」でありながら、自由と民主主義がエゴであれ妖怪であれ、その自由と民主主義という名の衣を纏っている限り「正」の姿になっているのである。(逆に社会主義は自由と民主主義の衣を脱ぎ捨てた)
では、資本主義文明社会は今後どうなるのか、また将来どういう社会になればいいのか、そのことを最終章で語ってみたいと思う。








