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原野辰三の社会評論エッセイ

人間性利説

日本型管理社会

−日本人の意識構造−

日本型の管理社会について前章で概略を記したが「管理社会」の問題は日本だけではなく、オーウェルの小説にもあるように世界の識者が指摘している。しかし、管理社会の弊害がこれほどまでに強烈かつ深く根をはっているのは日本をおいてほかにはない。

では「何故このような独特の日本型管理社会になったのか、何故このような日本型の管理が可能になっているのか」について私の考えを述べてみたい。私は二つの論点に絞られると考えている。

まず、一つは日本の自由民主主義の問題である。欧米の自由民主主義と日本のそれには歴史的経過と背景に大きな差異がある。つまり欧米には、人民が何百年の歳月を掛けて血で血を洗う闘争の末に自由と民主主義を勝ち取り確立した歴史がある。そのころ日本では300年の鎖国状態で、かつ封建社会が続いていた。明治維新で開国したものの日清戦争・日ロ戦争に勝ち、軍国主義社会が太平洋戦争敗戦まで続いた。したがって昭和の20年まで日本の国民は自由と民主主義を経験したことは一度もなかった。とくに民主主義に至ってはその概念すら知らなかったのである。

敗戦後、米軍のマッカサー司令長官の占領統治の中で、民主主義憲法が1946年に制定され、その時に初めて民主主義の概念を学んだのである。欧米のように国民が市民意識に目覚め、国民のボトムアップの戦いによって封建的支配を打倒して国民が自ら勝ち取った自由と民主主義ではないのである。

だから、日本は「自由民主主義の社会」だといっても、その型枠に日本国民が入れられたもので、欧米のボトムアップとは逆に、トップダウンによって与えられと自由民主主義なのである。

日本の自由民主主義は欧米のように長い歴史と戦いで培われた自由民主主義ではなく、形骸化されたものである。この実態は依然として今日なお国民の意識が旧態然として成熟せず、未だに真の自由民主主義社会とはほど遠いというのが日本の現実である。また国民の中に今日なお市民意識(社会的意識)が育たず、個人主義や権利意識が育たないのは、こうした歴史的背景があるからである。

日本型管理社会の要因は、自由と民主主義の歴史的背景だけではなく、もう一つ根本的な要因がある。それは日本人の国民性あるいは日本人の歴史的心理性ないし意志構造である。

日本人論についての著書は多い。日本人自身が書いたもの以外に外国人による日本人論も多くある。著名な「菊と刀」もその一つであろう。

その中で私が最も的確に日本人論を述べていると思うのは社会心理学者の南博氏であろう。

そこで南博氏の著書「日本人の心理」とその続編ともいえる「日本的自我」(いずれも岩波新書)を参考にしながら、私なりに要旨を述べると概ね次のとおりである。

南博氏は「人間の行動を動機づけ、そこに一貫した方向と色彩を与える心理的基盤は、われわれ日本人のパーソナリティに共通すると思われる自我構造にほかならない」と述べている。そして「日本人の自我構造の一つのきわだった特徴として、主体性を欠く「自我不確実感」の存在」を強調している。

また「日本人の自我構造を考えるのに、歴史心理学的なアプローチ」を試み、「日本人の日常的な生活行動をはじめとして、政治・経済の社会的行動、芸術・宗教・教育・科学の文化行動などの特徴」について、日本人の精神構造形成を近代の歴史に心理をひきつけて、自我構造を考えている。

そして「今日のような情報社会、大衆社会、管理社会のなかで、過剰な情報を受動的に受け入れることに追われるわれわれにとって、主体的に考え、行動する自我の確立は、いよいよ難しくなる」「さらに大衆社会は、規格品の大量生産、大量消費が及ぼす心理的な画一化、定型化によって、一層個性的な自己実現を妨げている」と述べている。

以上が南博氏の論旨を筆者がまとめたものであるが、なお南博氏の日本人論を拝借してもう少し述べていきたい。

日本人は主体性がない。主体性を欠いているから自我不確実感を生じる。自我不確実感は自己決定不安を抱く。その決定不安を軽減するために集団依存主義を利用する。つまり、みんなで決める場合(集団決定)には、そこに自己決定にともなう自己責任の部分が、集団責任に吸収されて、それだけ気分が楽になる。

集団依存主義による集団への所属意識は集団との運命共同体意識をもつことになり、ますます集団への依存と所属意識が強くなる。それはまた所属集団で自我の確実感に役立てようとする心構えを発揚し、所属集団内の行動を一定の型に沿って行い、あらゆる面で型を守ることに重点をおく生活意識になる。つまり集団我を形成するのである。

図式化すると、

自我不確実感
 ↓
集団依存
 ↓
運命依存
 ↓
所属意識
 ↓
定型化
 ↓
集団我形成

となる。これが日本人の自我構造である。

以上の日本人の自我構造観は、われわれ日常生活の中の言動にも表れている。たとえば「赤信号みんなで渡れば恐くない」(ビートたけし)「長いものには巻かれよ、太いものには呑まれよ」「滅私奉公」「泣く子と地頭には敵わぬ」「障らぬ神にたたりなし」などなどが挙げられる。

ここで集団依存主義の「日本的組織の特徴」について少し述べておきたい。

組織は本来、外部に対する機能をはたすために機構化されたものである。ところが日本の組織は、内向きに働き、本来の機能が自己目的化されてしまっている。

組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか

このことを堺屋太一氏は著書「組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか」で「機能体の共同体化」と述べている。平たくいえば「組織のための組織」になって、本来の目的が自己目的化しているのである。

とくに日本の官僚組織は、極端なほど構成員のための組織になり、内部の仲間の幸福を第一義に考え、本来果たすべき目的は「そっちのけ」で国民に対するサービス義務が忘れてしまっているのである。何故、日本的組織はそうなるのかといえば「日本人の集団依存主義による集団我形成が根本にある」からだ。

さらに厄介なのは組織の中の組織、つまり各セクション内も日本的組織になっており、セクト主義になっている。

本来、組織というものは縦糸と横糸が編み逢わされた神経組織であるが、日本のタテ社会の力学によって、日本の組織はヨコ糸が機能的に切断されているか、あるいは機能マヒをおこしているか、いずれにしてもタテ糸だけが働いている。

また日本はタテ社会と言われているが、これも「集団依存主義」の結果であると考えられる。集団とは組織であり、組織は上位から下位のヒエラルキーになっている。そこに序列が厳然とあり、集団内での人間関係はタテ関係を重視する。トップダウンの垂直型社会は、序列意識の強い力学によってボトムアップを抑制する。

なお中根千枝氏は著書「タテ社会の力学」で

タテ社会の力学

日本社会では法的規制はきわめて弱い。人々の行動を律するのは法ではなく、個人あるいは集団間にはたらく力学的規制である。・・・こうした社会に育まれた私たち日本人は、法規制にてらして行動するなどということはなく、まわりの人々に照らして、あるいは合わせて行動することに慣習づけられている

引用元 : タテ社会の力学 (1978年1月)

と述べている。

先程の集団依存主義から生ずる企業への強い帰属意識が、日本の労働環境を悪くし、大きな問題を起こしている。それは日本の世界一長い労働時間だ。それもサービス残業(只働き)である。法律で定められた時間外勤務手当をカットして只働きをさせているのである。これらの実態は殆どの企業でみられ、しかも強制されている。

まさに中根氏が指摘するように法より集団内の力のほうが強いのである。世界一の長時間労働は唯単に労働問題だけにとどまらず、社会問題になっている。つまり、父親のいない食卓や一家団欒のない家庭が子供問題の大きな要因にもなっているのである。

とにかく主体性のない自我不確実感の日本人は集団依存主義に陥り、利益共同体の所属集団に運命共同体的意識をもつ国民性だから、国家と国民の中間組織(企業など)は国家権力と同一化さる。また中間組織(企業などの利益共同体)は国民に「自発的服従」をやすやすとさせ、国民を管理してしまうのである。

このような日本型管理社会では国家対国民の関係より、企業などの中間組織との関係のほうが断然強い。

もともと日本人は欧米のように市民のボトムアップによって国家をつくったのではないし、また国家対市民社会という区別と認識があったわけでもない。

だから、日本人には欧米のような市民社会意識も市民意識もない。加えて主体性のない日本人的心理の特異性が相俟って、このような酷い日本型管理社会が蔓延したのである。

さらに問題は、主体性の欠如が「言葉に誤魔化され易く、言葉に操られる批判精神のない人間をつくる」という点である。

また、日本人はこの日本型管理社会の中で自分の位置を確保し、できれば序列の上位に昇るために競争に加わり精一杯、処世術や社内遊泳術を駆使して頑張る。

その分、心身の疲労の度合いは大きいから、フラストレーションを解消するために、日本人は、自分の拠り所を仏教の諦念観や武士道精神などの精神世界に求める。

たとえば「唯吾知足」、「腹八分医者いらず」、「ならぬ堪忍するが堪忍」、「喧嘩両成敗」、「上見れば切りなし、下を見て暮らせ」「苦あれば楽あり」「武士は食わねど高楊枝」「運は天にあり」「窮すれば通ず」「物ごとは気のもちよう」「ホンネとタテマエの使い分け」「人事を尽くして天命をまつ」「人生とは辛いさだめ」などと自分に言い聞かせて、究極的には「仕方がない」と割り切り諦めてしまう。

本来、社会的な不満や問題は、政治に向かうべきところが、不思議なことに日本では(外国人には“不思議”と写る)それが政治に向かわない。ここにも日本人の集団依存主義がはっきりと見てとれる。たとえば選挙の投票行動である。

有権者はどこかの組織団体に帰属している。それらは企業団体や業界であり、宗教団体であったりする。それらは殆ど政党や政治家と繋がっており、企業団体は彼らに献金をする。選挙になれば企業団体ぐるみで応援する。したがって投票は一国民一市民の意識ではなく、自分が所属する利益共同体の一員としての意思表示をする。私はこれを「団体翼賛選挙」と名付けている。

日本人は主体性がなく自我不確実感が強いから、集団帰属意識が強い。そのうえ歴史的にも市民意識が乏しい。だから団体翼賛選挙になり団体翼賛議会になる。結果、中間組織がますます支配力を強め管理を強化する。だから日本人は実生活において国家組織より、中間組織、いわば企業団体組織によって管理されていると言ったほうが的を得ていると考えられる。

いずれにしても日本型管理社会の最も重要な要因は、何といっても人間の「利的志向性」であろう。「利的志向性」は古今東西万人が備えている人間の本姓ではあるが、日本では南博氏が指摘する日本的自我に触媒されて、日本人の「利的志向性」は利己主義に変質する。

その結果として自分で自分の首を絞め、団体翼賛政治を招き、民主主義を妖怪にし、ますます日本型の管理社会をより硬直構造にしたものにしているのだ。

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