原野辰三の社会評論エッセイ
人間性利説
利的志向性と現代社会
「漢字源」によると「利」とはもともとは「刃物の尖った様」を表した形容詞で「鋭利な」という意味である。それが転じて利益、利息、利口などメリットを意味するようになった。
(蛇足であるが、刃物の尖った様を形容する漢字を「利」と書き、そこから利息や利益や利口という含蓄のある熟語を造語した人は「深遠な思考」のできる、それこそ鋭い人だ。それには感服する。)
私の個人的な感情論から言えば、「利」は私の最も嫌いな言葉である。とくに利口な人間は嫌いだ。近年は利口な人間が増えて、賢い人間が少なくなった。
利口な人間は「ずるい人間」だ。そんな人間がうじゃうじゃいる。利口な人間より、馬鹿な人間の方が、まだ人間味があって好感がもてる。私の個人的な好き嫌いを言うべきではないが、しかし「利」は悪に誘惑され易いという現実がある。
この現代社会を上手に生き抜くには社会システムに順応しなければ落ちこぼれ敗者になってしまう。だから利口になって社会システム(体制)に順応し、あるいはこのような社会システムを逆手にとって活用する人もいる。
また、現代社会はすべてにおいてスピードが要求される。自分にとって有利か不利かの損得勘定を瞬時に判断しなければならない。いわば「あみだくじ」と同じである。つまり線が交差する分岐点で上か下か左か右か、損か得かを選択していく様である。損得勘定のデジタル思考というわけだ。現代人にはそんな習性が身についているように思う。
換言すれば問題をファジーに捉え思慮深く熟考する慣習より、本能的かつ短絡的な判断のデジタル化へ傾斜しているように私は思う。現代は家電・通信機器等がデジタル化したが、人間の頭までがデジタル化したのだろう。
人間は古今東西「損得」を勘案しなかったわけではない。すなわち「利的志向性」は人間の本性であり、それは本能的欲望といえる。人間である限り誰にでも本能欲望がある。
あって当たり前で、それを否定することは人間そのものを否定することになる。本能欲望を悪と断定する性悪説を全面的に肯定することはできないことは先に述べたとおりである。
欲望を実現しようとする利的行為は科学技術文明の発達を促し、発達した科学技術文明がまた次なる欲望を増殖させた。欲望である利的行為と科学技術文明が相互に作用し、シナジー効果をもたらし、その循環が拡大の一途を辿ってきたのである。
また科学技術文明は豊かな物質文明社会を実現した。人間は欲望をつぎからつぎへと満たすために、自己増殖的に物質文明を発達させてきた。限度を知らない物質的欲望が科学技術文明の発達を促進させた大きなファクターであったことは認めざるを得ない。しかしそれとは裏腹に物質文明は精神の頽廃、刹那的利己主義的精神を増殖させたことも付け加えておきたい。
このように本能的欲望に根ざした「利的志向性」によって、人間は物質的欲望を自己増殖し、際限なき物質文明を追い求めた結果として生まれたのが資本主義経済社会であり、資本主義社会は「人間性利説」の必然性から生まれた社会と言えよう。
資本主義の支配形態が鮮明になったのは18世紀後半に始まった産業革命により、「商業資本主義」から「産業資本主義」へと転換した頃からである。アダム・スミスが「国富論」を書いたのは、ちょうどその頃である。
アダム・スミスは「神の見えざる手」が市場原理を合理化し最適化するという説を唱えた。
ただし、それが成り立つためには、社会において不公正が排除されることが大前提だった。また、前出のマックス・ウェーバーはその著書で「資本主義に合理性があるとするならば、資本主義がプロテスタンティズムの信仰と適合することである。すなわち資本主義の精神にプロテスタンティズムの禁慾的職務性を課すことをしなければただ利益を自己目的化する拝金主義に陥り、合理性を失う」と述べている。
資本主義経済社会は大きく発展を遂げ成熟し、今日では貨幣の性質まで変えてしまった。
貨幣は本来、物の交換手段であり、物やサービスの価値の尺度であったが「利が利を生む」手段に使われるようになった。すなわち貨幣が自己目的化して「マネー」に変質し、かつ自己増殖を遂げていくシステムに変化したのである。
また、資本主義経済社会は自由競争の市場原理が大前提である。自由競争は市場原理によって優勝劣敗が決定付けられる。その優劣は「利」の有無・多寡できまる。「利」がすべてに優先される。つまり、アダム・スミスやマックス・ウェーバーの理念の枠から逸脱し、その理念はことごとく打ち砕かれてしまったのが今日の資本主義社会である。
また資本主義社会は株式組織の企業一元化社会である。現代を法人資本主義社会と呼ぶ所以である。
ここで法人資本主義社会についてもう少し詳しく述べておきたい。人間の社会は原始社会から始まって今日まで発展して現代の形態になった。当初は村落共同体だったが、資本主義が発祥してからは共同体の性質が変化して、利益を目的とする利益共同体に変化したのである。利益共同体は次々とつくられ、人間は利益共同体と関係づけられ、あるいは組み込まれていった。資本主義の発展とともに共同体はすべて利益共同体になり、今日の社会は利益共同体の集合体である。利益共同体すなわち企業群によって形成された社会である。企業は殆ど株式会社化されているので、法人資本主義社会ともよばれている。
法人資本主義社会において、人間の殆どは資本家ではない無産の民だから人間は資本が支配する企業に労働力を提供して生活をしている。
資本主義社会は資本がすべてを支配する社会のことでもある。国家の権力者をも支配する。マスコミをも支配する。つまり人間は資本が支配する「資本主義体制の社会システム」に組み込まれてしまっている。
人間の本性である本能は性利的である。とりわけ資本主義という「自由競争の市場原理主義の弱肉強食の社会」は、いわば「食うか食われるか、やるかやられるか」の社会だ。
また「選択と集中」が繰り返され,弱者はどんどん淘汰されていく。このような資本主義経済体制下では、人間の「利的志向性」は「より顕在化」するとともに、さらに生き残りをかけて「より先鋭化」する。ましてや、人は他人の痛みや敗者弱者のことなどに思いをはせる暇などない。明日はわが身なのだ。他人を思いやる心の余裕すら奪ってしまう。
資本主義経済社会は私が主張する人間性利説がそのまま露呈し、人倫のコントロールに対して超克する社会である。すなわち人間の「利的志向性」を増殖させる社会システムであるといえる。と同時に強い者がより強く、弱い者がより弱く、貧富の格差を一層より拡大する社会システムである。
それを数字で見てみよう。例えば、世界の人口の3%である米国は全世界の25%を消費する。その一方でアフリカにあっては3秒に一人が餓死している。
世界最大の消費国の米国は豊かといわれながら、国内では1%の富裕者が富を独占的に支配し、その一方で3000万人が低所得の生活困窮者である。そのうち1200万人がボランティアの無料の給食で命をつないでいる。
また、全世界の国々が貿易決済に必要とするドルは、僅か8兆ドル。かつ地球上に存在するあらゆる国の国内総生産(GDP)の合計が30兆ドルに過ぎない。それなのに世界を駆け巡っているドルの総額は300兆ドルを超える。またニューヨーク商品取引所(NYMEX)2002年の取引高は1億2,515万b/dと、世界全体の実際の石油消費量(7,575万b/d)をはるかに上回る規模(1.65倍)となっている。
世界を股にかけ、投機目的のマネー(ドル)がいかに過剰か、そして自由競争の市場原理による「選択と集中」で弱肉強食と格差拡大が進んでいるかを数字が証明している。
これが米国の巨大資本主義が世界を支配している実態であり、日本社会もそのドルの渦に巻き込まれているのである。
アダム・スミスは「国富論」で市場経済は自動調節機能があり、経済活動は人間の利欲行為に任せておいても「神の見えざる手」によって公平に収斂されるので社会全体に利益をもたらすという経済理論を論じた。今日のこの状況を見てアダム・スミスはどう思うであろうか。
私論を言えば、アダム・スミスやマックス・ウェーバーが資本主義を容認する前提とした「人間の自浄能力や自動調節力をもつという人間性善説」は悉く資本主義自身によって裏切られたのである。
その結果「資本という恐ろしき魔力と人間の本性である無限の欲望」に打ち砕かれ、私が主張する「人間性利説の前には人間の人倫が無力化してしまった」というのが今日の現実ではないだろうか。実際に日常生活で、それをいやと言うほど見せつけられる。
耐震強度偽装事件・東横イン問題・BSE問題・アスベスト問題・JR事故・ライブドア事件など、どれをとっても企業利益をすべてに優先させた事例である。とくに姉歯元建築士が言った「設計事務所はあなたのところだけではないと言われ、生活のために引き受けてしまった弱い私がいた」という言葉が胸に刺さる。








