原野辰三の社会評論エッセイ
人間性利説
人間の本性は善か悪か
「人間は性善説か性悪説か」をテーマにした儒教は孔子を始祖とした儒学で、儒学は語に収められている。
論語は孔子とその弟子やその他の人たちとの対話対論集で記述者は孔子の弟子達である。
丁度、釈迦の教えをその弟子達が後年に書き記(しる)した仏教の経典と同様である。
儒学は孔子、曽子、子思 、孟子、 筍子 、韓非子(法家)ら多くの学者が独自の思想を唱え、中国思想史上に大きな流れをつくった。
その儒教は日本にも大きな影響を与え、特に武士道精神のバックボーンにもなった。
まず、孔子は「仁」を説き、弟子の孟子(前4世紀)は「仁」に「義」を付加して次のように主張した。
人間の本性は
- 人が困っているのを見て“かわいそう”だと思う情がある。(惻隠)
- 非を恥じる心と、悪を憎む心がある。(羞悪)
- へりくだり、譲る気持ちがある。(辞譲)
- 物事の“良し悪し”をわきまえる能力がある。(是非)
だから、人の本性は善であるとした。これが孟子の性善説である。
反対に、荀子(前3世紀)は「人間の自然性は本能欲望を拡大する。だからそれを人為的に規制すべし」と性悪説を説いた。
この荀子の影響を受けた韓非子は独自の学説を唱え、マキャベリ同様に刑法思想を啓蒙し、影響を与えた。
また、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが著した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は荀子の性悪説に通ずるものがある。
つまり、マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で資本主義の営利目的は禁欲的でなければ営利が自己目的化すると警告した。
私は人間を「善か悪か」の「どちらかを選べ」という二者択一の設問に対しては、設問自体に疑義をもっている。人間にはいろいろな心が同居している。
人間は善なる心も悪なる心も両方持ち合わせている。どちらかといえば多面体であるといえる。
人間の本性は「善か悪か」ということを論究するのではなく、「人間はいかにして善なる人格になるか、いかにして悪なる人格になるのか」という論理を構成するのが私の主張である。
では人格とは何か?「広辞苑」によると、
とある。
英語では人格をpersonalityという。personalityはラテン語のpersona(ペルソナ)から由来し、personaは劇用の仮面のこと。すなわち、人格は環境によって作られ、変わると言われる所以をpersonaの語源からも覗い知ることができる。
私は、人格とは「人が社会生活に於いて為す意思の体現態様」と定義している。
裏返しになるが、「行為」とは「人格の主体的現実化たる身体の動静」(団籐重光、元最高
裁長官)と定義している。
いずれにしても「ヒトを人にさせているのが人格」である。そして「人間は環境の動物である」といわれ、人間は環境の大きな影響をうける。だから人格形成においても環境の大きな影響をうける。
NHK記者が連続放火事件を起し、付属池田小学校で次々と小学生を刃物で殺傷し、奈良では女子児童を殺害してその写真を母親にメールしている。
塾の講師をしていた大学生が教え子の小学生を刺殺し、最近では滋賀県で母親が知り合いの幼稚園園児を送迎途中に殺害した。
統計によると昨年だけで105人の子供が殺害されている。とにかく人間として考えられない。このような事件は遺憾ながら日常茶飯事になった。
現代の事件や犯罪は殆どが、ゆがんだ人間関係、すなわち「ゆがんだ社会環境」にその原因がある。
人間の赤ちゃんは人の間で人になり、そして幼児期、思春期、青年期と成長過程で環境の大きな影響をうける。また成人になってからも環境の影響を受け続ける。
すなわち「人間にとって最大の環境は人間そのものである」ことを強調しておきたい。
ジャン・ジャック・ルソー(フランスの啓蒙思想家)は「エミール」の冒頭で
創造主の手から出る時には、すべてが善いものであるが、人間の手にかかるとそれがみな例外なく悪いものになっていく
(明治図書 世界教育学選集 エミール1 訳:長尾十三二氏)と書いている。
このルソーの言葉からも「社会が人間をつくる」と言えるのではないだろうか。
儒学における人倫論は人間の本性ないし自然性から人間を「善か悪か」を論じている。そのことについては一定の意義を否定するものではない。
しかし、人間は環境にどのような影響を受けるのかに重点を置いて人間を論ずるべきである、と私は考える。またその環境は時代とともに変化するので、その時代背景も考慮し、歴史的に考えることが重要である。
人間の本性は善か悪かを論じるより、人間はどのようにして善なる人格になるのか、またどのようにして悪なる人格になるのかを論じることが重要である。
現代社会は孔孟の紀元前400〜300年の時代とは丸で違っている。現代の社会体制、
社会システムの中で生きる人間の意識行動と、孔孟のその当時とは相当な違いがある。
それに関して、井上靖氏は小説「孔子」(新潮社、平成元年九月十日発行)の付録「負函の日没―孔子取材行―」の中で次のように書いている。
孔子は・・・春秋時代後期、乱世中の乱世に生まれ、生き、そして死んだ人である。
−中略−
「論語」の詞は乱世のただ中に於いて生み出されたもので、春秋・戦国という歴史的背景を持って、初めて生き生きと、こちらに迫ってくるものである
人間の心は2400年前も現代も本性的には変わらないことは否定しない。しかしアリストテレスやセネカは「人間は社会的動物」であると言っている。
またマルクスもケインズも同様のことを言っており、さらに「社会的存在が人間の意識を決定する」とも言っている。そのように人間は、社会の変化とともに意識構造も行動態様も変貌していくのである。
ところで荀子は人間の本能欲望に着目して性悪説を唱えた。私は荀子の「人間の本能欲望」を根本テーマに取り上げて論理を展開することは正しいと考えている。
また現代社会においても「地球は欲望という軸を中心に回っている」といってもよいくらいだ。ただし、私は欲望そのものを性悪と断定することには抵抗があるし、また人間を、予断をもって善か悪か、そのどちらかに決め付けるべきではないと考える。
人間は性善説か、性悪説かという論議は人間の本性論である。私は「人間は社会的動物で、かつ環境によってつくられる」という立場であるから、先程から述べているように人間の本性は悪か善かを決めつけることはしない。
私は人間の本性論を本能論と解釈する。しかし人間の本能を悪(性悪説)というのなら人間そのものを否定してしまうことになる。かといって本能の趣くままにすればよいことにはならない。人間の本性論を人間本能論と言い換えたとしても「人間性善説でもなければ性悪説でもない」と考える。
私の主張を結論的に述べておくと、人間性善説でもなければ、性悪説でもない、第三の説を唱える。つまり「人間性利説」である。そこで「人間性利説」を詳しく説明したい。
人間は善悪以前に損か得かを本能的に仕分けする。すなわち「利」があるかないかを本能的に判断する。人間は有利か不利かを本能的に仕分けしてから行為をする。私はそれを人間性利説における「利的志向性」と呼ぶ。
人間の本能に基づく「利的志向性」は万人に備わった人間の本性であって、それゆえ私は人間性利説を主張しているのである。しかし「利的志向性」を「悪」だといっているのではない。
その「利的志向性によって判断した結果の行為」は人によって異なるからである。その人が「利をどのように捉えるか」、「利に対してどのような判断をするか」で分かれ、その判断の結果の「行為」が善か悪かに分かれる。
「行為」とは「人格の主体的現実化たる身体の動静」であるから善か悪かは人格次第である。また、著名な哲学者、西田幾多郎氏は有名な著書「善の研究」の中で「善とは一言にて言えば人格の実現である」と述べている。
要はその人が「利」をどう捉え、どう判断するのかが人格であり、その人格が為した行為によって善悪が分かれる。
そして人間が社会において行う善悪の判断のプロセスこそが最も重要で最大のテーマである。そのテーマを順次説明していこうと思う。











