時事コラムを中心に、社会評論エッセイや名言・格言・諺の解説を掲載

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原野辰三の社会評論エッセイ

人間性利説

未来の社会

−地球は誰のものか−

現代の世界は資本主義文明社会一色である。そして資本主義文明社会が絶対正義であるかの如く、誰も疑問を差し挟まない。

その理由の一つに、それまで、資本主義の対極にあった社会主義が崩壊したことがあげられる。その結果、世界は資本主義以外に選択する道を失ってしまった。

しかし理由はこれだけではなく、もっと肝腎な理由がある。それは先に述べたとおり資本主義を自由主義と民主主義が両脇から支えているからである。水戸黄門を、ボディガードの助さん格さんが守っているようなものだ。自由主義と民主主義のガードによって資本主義が守られ、絶対化されているのである。

私はもう一つ理由を付け加えたい。資本主義には先のボデーガードに加え、知恵者がついていることだ。資本主義には知恵者の経済学者が付いている。その経済学者が資本主義にお墨付きを与えるているのである。いわば水戸黄門さまの印籠である。絶対的権力者徳川将軍家の権威の象徴を翳されては平身低頭するしかない。

人は権力と権威に弱い。とくに学者という権威に弱い。しかし、権威とは「それが正しいから」権威になるのであるが、実際はその逆である。歴史を見ればわかる。

私は、権威とは「パラダイムが『正義』の冠を被ったもの」と思っている。そして御用学者とは「権力者に『正義』の冠を載せる役人」であると考えている。とくに現代の経済学者は資本主義を延命させるために存在しているとしか思えない。

私は、地球環境問題に危機意識をもつ一人として、自然科学と社会科学の統合が不可欠だと考えている。自然科学分野では可成り研究熱心であるが、社会科学者は「それは自然科学の領分だ」と人任せのように思えてならない。その背景には「現代は哲学・思想が不毛の時代」という事情がある(?)が、とくに現代の経済学者の怠慢と無責任さを非難する。この件は後で指摘する。

ところで、人間にとって最も重要かつ不可欠なことが二つある。それは「個は全体の中の個であって、個は全体があってはじめて存在し、個は全体との関係において個として存在する」ということ。一言でいえば「自他一如」である。そして「全体とは何か。全体とは何を以て全体というのか、全体の範囲をどう考えるのか」という二つの点である。

この二つの根本問題を間違え、あるいは見落としてきた為に、人間社会は大きな過ちを犯し続けてきたのである。

人間にとって全体とは地球である。それは決して人間中心主義の世界でもなく、また国家でもない。地球は宇宙全体の中に関係づけられた生き物である。地球は雲・雨・風・空気・気体・太陽・月・水・氷河・河川・陸・海など天体と気象、地球のすべての生物、樹木・森林・植物、魚介類、海中植物、昆虫・微生物・動物、そしてヒトに至る宇宙万物が相互に関連し合って生態系を維持し、共生関係を保ちながら生きている。自然の生態系が自然の摂理によって生死の起承転結循環を繰り返しているのである。

つまりヒトも宇宙万物の一つに過ぎないのだ。ヒトは地球環境の生態系の中でのヒトであって、ヒトは地球環境の生態系があってはじめて存在し、ヒトは地球環境の生態系との関係においてヒトとして存在する。なのに「人は万物の霊長」と思い上がり、まるで地球の支配者と自惚れ、天上天下唯我独尊と君臨し、地球を我が物顔で食い散らし、地球の自然を破壊した。地球を俯瞰すると満身創痍の地獄絵さながらである。人は天に唾し、やがては自分自身に罰が下り、自らを滅ぼそうとしている。

先に私は経済学批判をした。誌面の関係で詳細を割愛するが、一言で経済学に共通して言えることは「人間中心主義」である。いかなる学派も学説も「人間中心主義」の枠組みからは一歩も踏み出したことはない。樹木で言えば「人間中心主義」の一つの根から伸びた枝のようなものだ。

すなわち「地球は一体誰のものか」という命題を一度も考えたことがなかったのである。

経済学者は「地球資源」は無尽蔵であるという前提で考えてきた。ここにきて最早「地球資源」は有限であり、「地球資源の消費」が地球環境にどれほど大きな破壊をもたらし、ひいては人間社会にどれだけ甚大な被害を及ぼしているか、それが今後も続くという重大性を認識すべきであり、「環境破壊のマイナス」を経済理論の中心にして論理を組み立てるべきである。

経済学が「人間中心主義」に陥り、地球環境と人間という観点をもたなかったのである。現代の経済学は有限な地球資源を如何に独占し拡大していくかが資本の論理であり、その資本の論理を合理化するための経営学に過ぎない。

経済活動で大気も河川も海洋もすべてを汚染しながら、あたかも神は人間にいつまでも自然の恵みを与えてくれるという「人間中心主義」の傲慢さと、「企業が発展し、企業の利潤が増えれば国民が幸福になる」と嘯く(うそぶく)経済学に私は警鐘をならしたい。

そして過去の学説や理論をいじくり回すような学問を一切捨て、地球資源は有限であり、全人類の共有財産であるという原則に立脚した「地球資源経済学」なるものを一から立ち上げることを切望する。

私は社会主義者ではないが、社会主義で一つだけ正しいことがある。それは「土地その他の生産手段の私有を認めない」という一点である。(ただし、社会主義も国民経済理論の一国経済主義だから、崩壊したと考えている)

地球は宇宙が創造したもので、人間がつくったものはない。そもそも土地は地球の皮である。いわば土地は地球全人類の共有財産である。それなのに人類は戦争で領土収奪合戦を繰り返し、あるいは資本と武力によって、国境を超えて農林水産物、鉱物等の地球資源を収奪し、その地球資源を消費して生産し、消費して自国民経済を成り立たせてきたのである。

だからこそ土地の私有は認めるべきではないのである。それが国家であろうと、企業であろうと個人であろうと私物化することはあってはならないと私は強く主張する。

地球は誰の物かといえば、誰のものでもない、人類の共有財産である。そして「地球は人類の共有財産である」という絶対的原理を確立し、その鉄則の中で論理を組み立てるべきである。

「土地に限らず地球全体そのものを全人類の共有財産とし、土地、農業森林資源・漁業・海洋資源・鉱物資源・石油資源など地球資源すべてを全人類の共有財産と考え、国家や企業や個人の私有を一切認めず、たとえば国連のような機関で一元管理する」という「地球中心主義」の思想があってしかるべきだと私は考える。

もし、この理想的未来社会が現実したら、国家という壁がなくなり、国家の概念が大きく変わる。そうなると戦争の原因である領土争いの火種はなくなり、領土争いに勝つための軍事兵器も軍隊兵員も不必要になり、当然核兵器も無用の長物になる。

とくに地球人類が過去犯してきた最大の愚行は、戦争の為の兵器に莫大な地球資源を消費し、自然と人間を破壊したことである。この愚行と無駄を大転換して地球環境回復のために使えば、必ず地球の自然環境の回復は見事にやってのけられると確信している。

地球中心主義」は、これまでのあらゆる主義・思想・哲学を根底からひっくり返えしてしまうだろう。そして資本主義も自然消滅するだろう。

人類の歴史は絶え間なく変化発展してきた。そして今後も変化発展していくだろう。現代は資本主義社会であるが、この社会も長い人類の歴史からすればその一過程に過ぎず、現代はその通過点である。したがって未来永劫にわたって続くものではない。やがては過去のものとなるであろう。

私は「森羅万象は、なるべくしてなり、なくなるべくしてなくなる」と思っている。歴史は必然性と連続性、そして無常である。資本主義文明社会は永久不変のものではない。とはいいながら、果たして、いつまで地球環境はもつだろうか心配である。急がねばならない。

地球の生態系において共生関係の循環を保つためには、「人間中心主義」から「地球中心主義」に変革させ、新しい文明社会を創出する以外にない。

私が主張する「地球中心主義」のキーワードは「共生」である。つまり地球との共生である。そして私はこの新しい文明社会を「共生経済社会」と名付ける。このままでは50年後に地球環境は回復不可能になるので一日も早く「共生経済社会」の実現を目指さなければならない。

本論のテーマは「人間は善か悪か」であった。私は人間性善説、人間性悪説のどちらでもなく、人間性利説を提起した。そして現代は資本主義社会だからこそ、私は人間性利説を主張し、人間の「利的志向性」が先鋭化し、肥大化したと述べた。

しかし私が理想とする未来社会、つまり「地球中心主義」の「共生経済社会」が到来すれば、肥大化した「利的志向性」はもっとスリムになるだろう。そして「利」の捉え方、「利」の考え方も大きく変わるだろう。

その「利」の捉え方・考え方は、いままでの利己の愚かさに気づき、自利を改め、全体を重んじ、自他一如の「利的志向性」に変身するだろう。そして「利益共同体」から脱却して、「使命共同体」に変革させ、地球環境を回復・改善し、それが唯一の人間の幸福の道であると気づくであろう。

イギリスの哲学・法学者ジェレミ・ベンサムが言ったように

われわれは他人を幸福にしてやるのに正比例して、それだけ自分の幸福を増すものである。人を助けて他人の幸福を増進した時、自分も必ずそれと同等な幸福を味わうことができる。

引用元 : ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham、1748年2月15日 - 1832年6月6日)

つまり「最大多数の最大幸福」という格言である。彼は功利主義者だとして批判されたが、私は「共生経済社会」の魁として彼を見直したいと思う。

二宮尊徳(二宮金次郎)は、飢饉に瀕している農民に向かって

国家最大の損失は人身の田畠の荒れたる事也。
其の次は田畠山林の荒れたる事也。

引用元 : 二宮尊徳(1787年9月4日 - 1856年11月17日)

といった。

私も思う。もし、人の心が荒廃していなかったら、やがて全人類は資本主義が人間を幸福にしないシステムであることに気づくだろう。とくに地球環境の破壊が命と暮らしを脅かしていることを実感し、その根本原因が資本主義文明社会にあると気づくだろう。

その時「人間の利的志向性」は、「地球中心主義」に目覚め、かつて自由を獲得するために「利的志向性」が凄まじいエネルギーを発揮したように、地球環境回復のために再び「利的志向性」が威力を発揮するだろう。そして全人類は立ち上がり、文明に革命を起こすだろう。

その文明革命は、社会から「利益共同体」を消滅させ、「使命共同体」に変貌させて、なおかつ人類は「一人は万人のために、万人は一人のために」知恵を結集し、自らの命運をかけて、地球環境回復・改善を成し遂げるだろう。そして戦争を過去の歴史の一ページとして終わらせるだろう。

その暁には、私の人間性利説について「昔、利的志向性を曲者扱いした馬鹿者なヤツがいた」と笑いものにする日が来るだろう。そして人間性悪説は否定され、人間性善説を信じる人間社会になるだろう。私はその日が来ることを期待してやまない。

いま、ここに描いた理想的未来社会、すなわち地球中心主義による「共生経済社会」は私の夢である。夢だから「・・たら、・・れば」の未来である。

先程、文明革命が起きたらと言ったが、かつてフランス革命等のように「あいつが人民の敵だ!」と叫んで、ルイ十六世等の独裁者を断頭台に引きずり出して首を切ることができたのは、それが封建社会や独裁国家だったからである。

現代の資本主義社会は自由と民主主義を標榜する社会であるから、国家の長は選挙で首にすることができる。

しかし、これからの文明革命で最も難しいのは、その主役が見えないことである。つまり諸悪の根源は「資本」だと叫んでも、その「資本」は姿形もなく、見えないのである。だから「見えざる敵」と闘うことになる。

そして一番厄介なのは地球環境問題である。なぜなら地球環境問題は生活習慣病と同じであるからだ。つまり「こういう生活習慣を続けていたら、取り返しのつかない死に至る病魔に冒されますよ」と警告されても実感が湧かない。

事実は差し迫った重大な危機的状況にありながら、しかし、不思議と緊迫感のあるドラスティックな状況にはならないのである。そこが地球環境問題の難しいところであり、そこがまた一番恐いところでもある。

いずれにしても、50年後には結果が出るだろう。そして、地球が破滅して人類は地獄に行くか、それとも夢の天国になるかは、人間が答えを出すことである。

にんげんだもの

最後に私は現代の人々に、相田みつを氏(詩人、書家:故人)の言葉を戒めとして贈りたい。そして私の結びの言葉に代えさせていただく。

そんかとくか 人間のものさし うそかまことか 佛さまのものさし

合掌。

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