原野辰三の社会評論エッセイ
関東大震災
おわりに
わが国の「公共性」がいかに公共性でないか、改めて考えさせられた。とにかく、すべてにおいて、
仏つくって魂入れず
看板に偽りありなのだ。
裏返していうと、日本人にとって言葉は「内容」はどうでもよく、ただ「語感」がよければ納得する。
たとえば「文化」についても同様のことが言える。戦後、高度経済成長に伴って人・もの・金が都市に集中し、過密化が急激に進んだ。当然住宅の供給が急がれた。そこで登場したのがいわゆる「文化住宅」という住宅だった。あれが文化なのだ。
また、各市町村は豪華な「文化ホール」を建てた。しかし中身は空っぽ。文化ホールを建てることが文化行政なのだ。すなわちハードに予算はつくが、ソフトに予算はつかい。
今マンションが林立している。マンションはmansionで本来は超豪華な邸宅が正しい訳である。リムジンバスはlimousineでvipを送迎するための高級バスのことだ。横文字に惚れやすく、コマーシャルメッセージに満足するのが日本人である。
先日、私はタクシーに乗った。よくしゃべる運転手だった。そこへ高校生が自転車で正面から逆走してきた。運転手は「やっぱり、森前首相がいうように、教育基本法を変えないといかん」と言い出した。
わたしは「どこをどう変えればいいのか、いまの子供の問題と教育基本法とがどのように関係しているのか、ところで運転手さんは教育基本法を読んだのですか」などを質問してみた。なにも答えがない。ただ子供の問題イコール教育基本法なのだ。
とにかく、政治改革、行政改革、教育改革等々「改革」というスローガンさえ声高にいえば国民は、その中身を問わず、中身を知らず賛同する。
EUのように市民意識、社会意識、政治意識が高くなければ、日本はいつまでたっても、政・官・業とマスコミの4大権力が国民を欺き続けるだろう。
何年前か忘れたが、テレビで「赤恥・青恥」という番組があった。当時、中高生の間で「ガングロ」という化粧が流行っていた。その高校生にマイクを向け「いまのアメリカ合衆国の大統領の名前は」と質問した。すると二人の女子高校生は顔を見合わせ、一人が「ワシントン」といった。もう一人が「ちがうやろ、リンカーンやろ」と言い換えた。当時はクリントンだった。
わが国にはとんでもない誤った個人主義が蔓延している。個人主義を利己主義と、はきちがえている。
日本人は自分さえ、自分の家族さえ、自分の会社さえ、よければそれ以外のことは関係ない、また関わりたくない、のである。
人のことを“人の間”と書き、人間という。すなわち人間は社会的存在なのだ。
「個」は全体の中での「個」であり、全体の関係の中でしか「個」は存在しない。それが分かっていないのだ。
人間は社会的動物である
(アリストテレス 古代ギリシャの哲学者)
社会的存在が人間の意識を決める
(マルクス ドイツの経済・哲学者)
他者の痛みを自分の痛みとして受け入れ、考動できる人間がいなくなった。毎日のニュースが暗い。







