原野辰三の社会評論エッセイ
関東大震災
ジャーナリズムとは何か
わたしはマスコミに対して懐疑的で、ある意味において歴史に無責任な犯罪性さえ感じる。その心の反作用として、あるべきジャーナリズムについて答えを求めてきた。とくに大変な影響力を持つ、テレビと新聞における、ジャーナリズムに関心を注いできた。
ジャーナリズムの本質については,
いま伝えなければならないことを、いま伝え、いま言わなければならないことを、いま言う
(新井直之マスコミ日誌、新聞批判)がよく引用される。
この本質論に、胸を張って、「わたしは、わたしたちは、そうしてきた」といえる新聞社マスコミがあるだろうか。
本多勝一氏(元朝日新聞記者)の滅びゆくジャーナリズムを読むと背筋が寒くなる。本多氏は新聞を作る側から述べているから、説得力がある。
私自身、戦後60年、「新聞は常に権力者側にたち、世論操作に協力してきた」ことを実際にみてきた。
そして新聞はいつも反動的だと思った。それを本多氏が証明してくれた。
また「滅びゆくジャーナリズム」が「日本を滅びさせた」と言っても過言ではない。確かに数字の上では経済成長したものの、昨今の社会全体の現実をみると、「日本は滅んだ」と思わざるをえない。
ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得し得るような有能な編集者は、世界の支配者ではなかろうか。
(トーマス・カーライル イギリスの歴史家・思想家 1795〜1881)
と100年以上前に言っている。
わたしは、この言葉から、ジャーナリズムは「権力」になるのか、それとも「権威」になるのか、そのどちらになるかが問題だと思う。
「権威」はそれが正しいから「権威」になる。できれば「権威」になってほしいと強く希求している。
ここで、パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集(著者エーリッヒ・ショイルマン訳岡崎照男立風書房)から一文をご紹介します。
その前にこの本の説明をしておきます。
「ツイアビ」はサモア諸島ウボル島ティベア村の酋長です。ツイアビ酋長は20世紀初頭にヨーロッパ旅行に行き、西欧文明社会を見て、そのことを語りました。それをドイツ人のショイルマンが本に著したのが、このツイアビ演説集です。
この中の、「パパラギ」とは「白人」のことです。サモア諸島では「パパラギ」はただ単に白人を意味するだけでなく、「利己主義者」とか「文明に毒された」という意味を加味した原語で蔑称を含んでいると言われています。
この演説集でツイアビは「新聞」を次のように言っています。
新聞は人を一つの頭にしたがっている。私の頭、私の考えを征服しようとしている。 どの人にも新聞の頭、新聞の考えを押しつけようとする。
そして、それはうまくいっている。おまえが朝、束になった紙を読めば、パパラギの頭の中に何があり、何を考えているか、お昼にわかってしまう。
新聞も一種の機械である。毎日たくさんの考えを作り出す。ひとつひとつの頭が考え出すより、はるかにたくさんの考えを。しかし、たいていの考えは誇りも力もなく、弱い。
おそらく私たち頭は、栄養でいっぱいになるだろう。しかし強くなりはしない。だったら砂で頭をいっぱいにするのと同じではないか。
パパラギは、こんな役立たずの紙の栄養で頭をあふれさせている。ひとつが追い出せないうちに、もう新しいものを取り入れる。
パパラギの頭は、自分の泥で窒息しそうになっているマングローブの沼地のようなものだ。そこにはもう緑もなけれ、実を結ぶものも育たない。ただ吐き気をもよおす蒸気が立ち昇り、刺す虫ばかりがぶんぶんうなっているだけだ。
まやかしの暮らしのある場所と束になった紙が、パパラギを今の姿にした。
弱く、迷い多い人間、本当でないことを好み、もはや本当のことを知ることができない.
月の似せ絵を月だと思い、字の書かれたむしろを人生そのものだと考える。そんな人間にしてしまった。
ツイアビがヨーロッパにどれだけの期間滞在したのか知らないが、この洞察力に感銘したエーリッヒ・ショイルマンも鋭敏な人だと思う。
わたしは新聞や放送に対して、「何かを求めたり、期待したり、また真実や正義を望む」ような幻想は、そもそも持ち合わせていない。
私がもっとも危惧するのは新聞の記事や社説を“正しい”と信じ、それを無批判に受け入れてしまう人が多いことに落胆する。それが最も危険だと思う。
自分自身が「何が正しいか、何が本当か」を判断したり、見たり、考えたりする力をもつことが先決問題であって、それを逆に新聞から得ようとすることは本末転倒だと言いたいのだ。
最近、ブログで現役の若手記者が次のようなことを書いている。
メディアの公共性を議論する場合、まず「電波が有限である」ため国の免許が必要な放送と、新聞とは分けて考える必要がある。
新聞に関して言えば、はっきり言って「公共性はない」と私は考える。あるいはもっと正確に言えば「公共性を追求しようがしまいがその新聞の勝手」である。
―中略―
朝日新聞が左寄りであろうが、産経が右寄りであろうがその会社の自由。赤旗や聖教新聞のような新聞があってもいいし、
―中略―
不偏不党や中立性というのは「どんな政治家や団体からの圧力にも屈せず、自分のところの編集方針を貫く」ことであって、「右にも左にも偏らない無色透明」になることではない。
「偏向する自由」がある点が、免許制で法律上の制約がある放送とは全く異なるところだ。
わたしも全く同感です。









