原野辰三の社会評論エッセイ
象徴的貧困の時代 ―ネット空間にはびこる正論原理主義について―
(1)はじめに
2009年3月、村上春樹氏がエルサレム賞を受賞した。彼が授賞式に出席することに反対する意見もあったが彼は出席した。
授賞式でのスピーチが話題になり、また文芸春秋のインタビュー記事「僕が何故エルサレムに行ったのか」について大きな反響を巻き起こした。
インタビューの中で、彼が述べた「ネット空間にはびこる正論原理主義」というくだりに火が噴き「ネット空間」に賛否両論が飛び交っている。
村上春樹氏はスピーチで「壁と卵」という比喩的表現をした。「壁と卵」については、後の文芸春秋のインタビューで、その説明を分かり易く語った。
その際、「正論原理主義とは、考えることを放棄してしまうシステム」であり、それが「壁」になると説明した。その際「ネット空間にはびこる正論原理主義」と述べたことから、ネット空間に火がついたのである。
私は村上春樹氏のスピーチおよびインタビューを読ませていただいた。だから「ネット空間にはびこる正論原理主義」も「正論原理主義は考えることを放棄してしまうシステム」と述べたことも承知していた。
私はそれらについて、とりわけ異論・反論・違和感は抱かなかった。むしろ「そのとおりだ」と納得した。
ところが、ネット空間で賛否両論が巻き起こったのである。とくに村上氏に賛同する立場で記事を書いたブログに対する異論・反論側の攻撃は凄まじい。
その内容を読んでいると、殆どが議論というものではなく、激しく汚い罵詈雑言である。
ネット空間に飛び交う罵(ののし)り合いは、いわば「左翼」だの「右翼」だのといった“レッテル"貼り合戦で、まさに偏見と偏見のぶつかり合いだ。
そんな罵詈雑言を浴びせる者たちこそ「考えることを放棄してしまった正論原理主義者」だ、と自らを証明している。
そこで、村上氏に賛同するブログがあったのでご紹介しておこう。
マスコミが家父長的なパターナリズムに陥って、わけのわからない古びた勧善懲悪を振り回す。そういう空気の支配には唖然とさせられるが、その一方でインターネットの世界も空気に支配されている人が少なくない。「反マスコミ」「リベラル」「反サヨク」という空気に呑み込まれて、その論理の本質そのものは置き去りにされ、まともな議論は置き去りにされたまま空気だけが支配力を強めていくようなところがある。この空気の支配は、自分を正当化する。議論しない。悩まない。それこそがすなわち、「正論原理主義」だ。
正論原理主義は楽チンである。なぜなら絶対的な正義を背中に背負っていると信じることができれば、思い切り大声で怒鳴ることができるから。怒鳴っているうちに、どんどん気持ちは高揚し、ますます自分は正論を吐いているのだ、と気持ちよく酔うことさえできる。
ところで、「正論原理主義」という言葉は、かつてあったのだろうか。「原理主義」や「イスラム原理主義」は知っているが、「正論原理主義」は初めて聞く。
おそらくは、村上春樹氏が初めて造った新語ではないだろうか。私の推察だが、村上春樹氏は「イスラム原理主義」の「イスラム」を「正論」に置き換えたのではないだろうか。
宗教の原理主義ではないが、「正論」も宗教に酷似しているので「正論原理主義」と名づけたと思われる。






