原野辰三の社会評論エッセイ
大本営発表
報道の使命
いかなることでも、意見、考え方物の見方、主義、主張は多種多様、種々雑多でピンからキリまである。
ピンやキリは、即ち、両極端に位置する少数者。わが国は”事なかれ主義”だから中庸を好み、極論をいう少数者の問題は問題にならない。
報道においても少数者の問題を取り上げると偏向報道になる。従軍慰安婦たちの数からいえば、朝鮮、中国、オランダ等々その国の人口比からみれば、取るに足らない数であろう。その極少ない人たちの声を取り上げることは偏向なのか。
わたしはむしろ、その彼女たちに焦点をあて、クローズアップすることが重要であり、そこに報道の価値があり、それが報道の使命だと思う。
結局は自民党が言う偏向とは、自分たちにとって、都合の悪いこと、言われたくないことを、偏向と決め付け、公正公平を欠いていると言うのである。
またわが国はいまだに民主主義が未熟だから、少数意見を“偏向“というレッテルを貼って、あたかもそれが”悪“という印象を与える。
本来、偏向報道とは、意見が分かれた場合、一方だけの意見だけを報道し、他方は報道しない場合をいう。報道は双方同時ということはないので、どちらかが先になる。
この場合は必ず反論の機会を与えるべきで、その機会を与えないときにはじめて偏向という。どちらが先になろうと、取り上げた段階で“偏向”と決め付けることが、そもそもおかしいのだ。
要するに、偏向と決め付けた彼らは、従軍慰安婦たちの悲痛な叫びを聞く耳を持たない人たちである。
北朝鮮に拉致された家族たちの訴えも当初は少数者の取るにたりない問題として扱われていたのである。
「報道の自由」は憲法が保障している。しかし、実際は不自由である。なにが不自由かといえば、この世はすべて、“力“関係に左右されるから。 “力関係”で黒が白になり、白が黒になる。正が悪になり、悪が正になる。
自分の意見、主義主張がなく、定見もなく、ただ「みんなの顔色を窺って、みんなに合わせておけば無難」という人間や、力のあるものに擦り寄り、権力者におもねり、支配者に従う、いわゆる体制順応型人間が大勢では、社会は悪くなっても良くはならないのではないか。
また、新聞の見出し、テレビのテロップなどをつまみ食いして、上手なスローガンの言葉に操られ、具体的内容を知る努力もせず、知ったかぶり、解ったかのように思っている人間が多い。これでは為政者の思うツボである。
ひとりひとりが主義主張をもち、信念をもつことが重要である。
吉田松陰は
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
と辞世の句を詠んで、刑場で無念の最期をとげた。
このような気骨のある真実に命を懸ける人物が今求められている。
静かに軍国主義の足音が聞こえ、暗い影が忍び寄っている今こそ。







