原野辰三の社会評論エッセイ
狼少女 カマラとアマラ
結論として=読むこと、書くこと=
それなのに現代人は映像社会、音声(電話)社会に埋没して、頽廃文化に汚染され、読むこと、書くことから遠ざかり、言葉を無用の長物化してしまったのではないか。
読むことは考えること,書くことは考えること、である。
パスカルは、
人間は考える葦である
(正確には、“人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である”。パンセの一節より)と言った。
また、フランシス・ベーコンは
読書は人間を豊かにし、ものを書くことは人間を正確にする
と言っている。
日本では昔から「読み書きソロバン」といって、それを教育の基本とした。
そして「蛍の光、窓の雪、文読む月日重ねつつ・・・」と唱和した。
今にして思えば、日本は教育の先進国であった。それが、いつのまにやら、記憶力=学力という誤った偏差値教育で”金太郎アメ”を大量生産し、クイズ万能教育国家に没落してしまった。
また有名な逸話(?)がある。小学生のテストで、氷が解けたら何になる、という問いに、「春になる」と答えた生徒がいて、先生や他の生徒から、笑われたそうだ。
水と答えず、春と答えた生徒は詩的な美しい心をもった子供ではないでしょうか。答えは一つではないのです。
本当の学力は、記憶力テストでは身につかない。物事を考える力、ものの考え方、ものの見方を身につけることが学習であり、教育である。
そして、いろんな考え方があることを学ばせることが重要である。
言葉は、言霊ともいい、人間の歴史、文化、風土の中で、永年にわたって培われてきたものである。たとえば、「わび」「さび」は日本独特の精神文化である。西洋文化圏からの留学生がつくった俳句をみたことがある。いくら日本語が堪能になっても、俳句にならない。
言葉を大切にすることは、考える力を蓄えると共に、文化をも大切にすることだと思う。
ここで知恵と知識について少し述べておきたい。
知識と知恵は違う。知識はすでに存在する情報で、脳に記憶蓄積された情報である。
知識は、ものを考えるときに必要な“部分品”である。
知恵は問題を処理解決する脳の働きである。すなわち、知恵とは記憶蓄積された知識という部分品を問題に応じて取り出し、それを組み立てて問題の解法を導き出し、問題を解き明かし処理解決を図る脳の働きをいう。
だから知識は脳に記憶されたものだが、知恵は記憶された知識を動員して脳を働かすことをいう。
別な言い方をすれば、知識は点であり、点と点を線で結び繋げていく脳の働きが知恵である。
将棋に譬えると、知識とは駒のことである。駒の機能を知っていることは知識である。その知識だけでは将棋にはならない。その駒をタクスフォースにして初めて将棋になる。そのタスクホースが知恵である。
現代は「知識はあるが知恵のない人」が多くなった。特に若齢になるほどその傾向が強い。「点でばらばら」とか「すぐ切れる」という表現があるが、「脳が働かず知恵がない人」のことを言っている。
管理教育、偏差値教育、受験教育の弊害、即ちクイズ教育の結果だろう。本当の学力とは考える力である。知識を詰め込んで知恵を教育しなかった戦後教育に問題がある。
ところで、知恵を働かすには、その部品である言葉がなかったり、少なければ知恵も貧弱になる。
換言すると、言葉は知恵の栄養素のようなもので、言葉に貧困すれば知恵の力も貧弱になる。
いずれにしても、読むこと、書くことの重要性と言葉の大切さを今一度再認識したいものである。







