原野辰三の社会評論エッセイ
狼少女 カマラとアマラ
考えるということ
では、なぜ総白痴化したのか。結論は思索に費やす時間をなくしたからである。
思索に費やす時間をなくさせた犯人はテレビだけではない。
世界一の長時間労働を強いる日本企業と日本特有の会社人間が共犯者である。
人間は物事を考えることをしなくなったら、ますます考える力は向上しない。むしろ退化する。
考えるということは、もちろん大脳の働きだが、その際、蓄積された言葉を用いて考える。考えない人は言葉を使わない。だから、考えない人は言葉の質量とも低下する。
言葉は唯単に辞典に書いてある意味がわかれば、それで良いというものではない。
たとえば、“自由”という言葉について考えてみる。国語辞典では「心のままにすること。束縛や障害がなく、思うとおりにできること。」とある。
しかし“自由”を考えてみればこれほど難しい課題はない。過去多くの哲学者・思想家や法学者がこのテーマに取り組んできたが、いまだに難問なのだ。
−先般ブッシュ米大統領は今年度の一般教書演説のなかで、”freedom!”を50回も叫んだ−
とにかく現代人は、書物を読まない、ものを書かない。だから「言語」の蓄積が増加しない。また「言語」に対して無神経というのか、無頓着というのか、軽々しく扱いすぎる。
言葉は、それがつくられた歴史、要因、背景、土壌、時代、その意味の広さ、重さ、定義、等々一語一語がそれこそ意味深長で哲学的なのだ。
また、「言葉」は人と人がおしゃべりをする道具(コミニケーションツール)だけではない。
「言葉」というものは人間が人間たらんとする根本であり、神から与えられた最も崇高な贈り物である、と私は考えている。
ところで、作家の井上ひさし氏は「言葉の定義」について次のように言っている。
言葉は本質を解明する為にある。しかし言葉はしばしば本質を隠すために使われる
まさにそのとおりだ、とわたしは思う。
では本質とはなにか。本質に対して現象がある。現象は本質ではない。
最も解り易い例を挙げれば、天動説、地動説である。(これについては別途書く予定)
天を仰げば誰が見ても、天動説と思う。そう見えるから、これ当たり前。これを現象という。
しかし、本質は地動説である。
世間では現象だけで判断する。本質を知ろうとする姿勢もないし、努力もしない。本質を知ろうとすることは、人間の務めであり、責任ではないだろうか。
本質を解明するということは、科学することである。科学するには言葉が重要である。
人間は万物の霊長である
と誰かがいった。
《果たしてそうか?わたしは最近そう思えなくなった。むしろ人はこの地球上でもっとも愚かな動物であるとさえ思うようになった。それは兎も角として》
ヒトが人間(ホモサピエンス)たるゆえんは唯一“言葉”を造り出し、言葉をもったことにある。
原始においては他の動物と同じように言葉は“合図”や“信号”としての機能だったが、人は言葉をつぎつぎと開発した。
まず、物質名詞から出発し、長い年月とともに抽象的な概念をもつ言葉を発明していった。
そして言葉の量と質の発達が相乗的に作用して、文化や科学技術文明を発展させてきたのである。
人間がものを“考える”ことが出来るのは言葉があるからである。人間は言葉をもっているから考えることが出来る。
人間から言葉を奪い去ると人間は考えることができなくなる。そうなると人間はヒトになり、サルになってしまう。
最近つくづく思う。日本の若者は言葉を失いつつある。言語という点において日本は世界で最も恵まれた国であるにも拘らず,誠にもったいない。







