原野辰三の社会評論エッセイ
狼少女 カマラとアマラ
人は人との間で人になる
つい先だって、小学生の漢字の書き取りテストの結果が報道された。そしてコメントがあった。そのコメントについてコメントする気はない。
なぜなら、とにかく「最近の子供は・・・・・云々」と言っては“子供の教育”を問題にする。
わたしは「子供の問題を言う前に、大人を見てみろ、大人はどうなんだ」と言いたい。子供は大人社会の反映であり、結果である。
大人社会を見てみると、政治家、官僚のやっていること、企業のやっていること、すべての大人が年がら年中、悪事だらけで無責任である。
聖職といわれる裁判官、警察官、弁護士、医者、教員までが不祥事を多発させている。
殺人は日常茶飯事で、毎日毎日ニュースを見聞きするのが本当にいやになる。
また電車に乗っても、街を歩いても、車の運転を見ても、世の中のマナーの悪さ、モラルの低さに怒りが込み上げてくるが、その多さに辟易する。
大人社会がこんなに無茶苦茶なのに、子供に“清く正しく美しく”なんて言えたものではない。
山本五十六は
やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ
と言った。
その「やって見せる」べき大人たちが、この“ていたらく”なのに、どうして子供だけが良くなるのか。
植物でも荒れた土壌には育たない。ましてや“環境の動物”といわれる人間が、こんなに腐りきった社会環境で、まともに育つはずがない。
「人間にとって最大の環境は人間である」と言った人がいる。人が生まれ育つ上で、自然環境は当然大切であるが、人間にとって根本的に重要な環境は“人間“そのものである。
それを証明するような大発見があった。いわゆるオオカミ少女の実話である。この事件は学術的にも貴重な記録と報告といわれている。ご存知の方が多いと思うが少しだけ、このオオカミ少女の話をしておきたい。
(詳しくは柏樹社昭和52年発行 伊藤隆二著「育つということ―人は人との間で人となる (1974年)」是非一読をおすすめしたい本である。
著者の略歴東京大学教育学部卒業、大学院在学中三木安正先生師事、京都大学医学部精神神経科教室で知能病理学の共同研究をする。第18回総合医学賞受賞、神戸大学教授)
上記の著書から一部を引用する。
今を去ること五十数年前(昭和52年を起算しているから、実質は約80年前)1920年のこと。ところは、インドのカルカッタの南西70キロほど離れたミドナポールのゴダムリ部落。そのはずれの森のなかで、狼と共に暮らしていた二人の女のこどもが発見されたのである。後にそれぞれカマラ、アマラと名づけられた子供たちの年齢は、八才と一才半程度。それぞれ生後一年もたたないうちに狼にさらわれたであろうと推定された。
―中略―
このときからかぞえてまる七年もの間、人間の赤ん坊カマラは狼のなかで、狼の習慣にしたがって成長していったのだった。その間、じつにカマラの育ての親となったメス狼は、もう一匹、いやひとりの赤ん坊アマラを、同じようなやり方で、この狼族の中に連れてきていたのだった。この二人のこどもが、イギリスからきていたシング牧師の巧みなリードにより、人間の社会につれもどされたときの状態はー。こどもたちは光を嫌って、昼間は部屋の隅にうずくまっているが、夜になるとほぼ決まった間隔で遠吠えをする。部屋のなかを四つ足(?)で歩きまわる。じっさい、足の関節も肩の肉や骨の形も、股の角度も、四つん這いに適するように変形していたし、手の指はまったく動かず、ものをつかむことはできなかった。目は夜行動物と同じように暗闇でもよく見えたし、臭覚と聴覚はとくに鋭かった。遠くで生きものが動くときのかすかな音をききわけ、匂いをすばやく嗅ぎつける。鶏を追いかけてつかまえ、その場でかぶりつくといったことは、人間社会に戻ってからも、なかなか止めなかったという。止めさせようとすると、逆にその人にとびかかり、一撃を与え、さっと身をひき、再び攻撃の体勢を整える、というふうだった。
―中略―
「人が人となる」ことの基本原理
この狼少女の実話から、私たちはあまりにも平凡な、いや平凡すぎて少しも不思議に思わなくなっている「人が人となる」ことの基本的な原理を学ぶことができるのである。
それは二つある。その一つは、そしてこれがもっとも重要な点なのだが、人は生まれつき人として存在するのではなく、人との間で生きることで初めて、未来へ志向していく人間になるという基本原理についてである。
この原理が動かしがたいものであることは、人間以外の生きもの、たとえば猫が生まれ落ちてすぐ種類の異なる生きもの、たとえば犬と共に暮らしても、また、そこでどんなにきびしい訓練を受けたとしても、猫が犬になることはできないのに、人間の赤ん坊のみは、狼と共に暮らせば狼に、サルと共に暮らせばサルになってしまうという不思議な、しかし深く考えさせられる事実があげられるからだ。しかも、人の場合、人との間で生きるというとき、赤ん坊との間に生きるあなた(大抵は母親であるが)の生き方こそが、赤ん坊のその後の人間としての育ちに決定的な役割りを果たしていることを忘れてはならない。
「人が人なる」ことの基本原理のその二つは、人の可塑性は、一般に生後早いときほど、容易に一定のかたち(構造)として固まり、また固有のはたらき(機能)をあらわしやすいということである。
著書ではヒヒに育てられた赤ん坊の実話も紹介している。著者は「人は人の間で人となる」ことを強調し、とくに赤ん坊から幼児の教育に力点をおいておられる。
《オオカミ少女の話については、ある人から、信憑性に疑義があると指摘をうけた。むしろ作り話という説が有力視されている。わたしは伊藤隆二氏の著書を引用したが、「0歳からの教育の重要性」が彼の趣旨とご理解いただきたい。
なお、このようなご指摘は私にとって本当に有難い。私は常々人間一人の知識や能力はサハラ砂漠の砂の一粒でしかないと思っている。だから人間は死ぬまで勉強だと考え、日々新たに学習を続けたい。どうかご指導ご鞭撻をお願いしたい》
いずれにしても人は赤ん坊から幼児に、幼児から少年に、少年から青年になり成人大人になるが、年齢をこえて人は社会環境のなかで生きている。






