執筆者:
原野辰三
投稿日時:2010年02月03日 AM12時00分
「理念なき政治」
「労働なき富」
「良心なき快楽」
「人格なき教育」
「道徳なき商業」
「人間性なき科学」
「犠牲なき宗教」
しばらくは、この「七つの社会的大罪」について、シリーズで書いていきたいたい思います。
今回は、その内の一つ「犠牲なき宗教」について書きます。
「宗教とは何ぞや」については、機会があればに、別に譲りたい。
ただし、「宗教の功罪」については、私は、どちらかといえば、罪に比重をおく。
とはいえ、現に世界中に宗教は普及蔓延しており、その信者は人口の数ほどいると言っても過言ではないだろう。
むしろ日本の場合は、無宗教国家と言えなくもない。
いや無宗教と言う表現が当たっていないとすれば、日本は、「一神教ではなく多神教的で、それも祭礼儀式として節目・節目に採り入れられている行事として利用している国」と言ったほうがよいかも知れない。
いずれにしても世界からみれば例外的な国民性であるといえる。
それはともかく、私は「宗教」の一断面を次のように考えている。
現在、人口に膾炙されている宗教のいずれもは、その「開祖」は、身に降りかかってくる迫害や危険に対して身命を賭して「我が信念」を貫徹した人たちである。たとえばキリストも日蓮もそうであった。
ところが、組織が巨大化した宗教団体は、聖なる「開祖」の教えなど、どこ吹く風とばかりに、ひたすら「利益追求する堕落ぶり」である。
敬虔なる信者の浄財による巨大な資本、たとえばローマ教会のマネーは、世界の資本市場において、大きな影響力をもっている。
近年では創価学会の牧口常三郎戸田城聖は、第二次世界大戦下の当時の政府の国家神道を中心とする宗教、思想政策に従わなかったため、1943年6月に治安維持法並びに不敬罪によって幹部らと共に逮捕され、 牧口は獄死したのだ。ところが、池田大作以降の創価学会は、どうであろうか。知る人ぞ知る有様だ。
要は、表向きは、崇高な人の道を説きながら、裏では幹部たちが“酒池肉林”の贅沢三昧をやっているのだ。
ところで、私にとって、生涯忘れることのできない衝撃的シーンがある。
ベトナム戦争最中の出来事だ。
それは1960年代にサイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えた出来事だった。その後も、戦争に抗議して僧侶が相次いで焼身自殺をしている。
その衝撃映像を見ながら、私の父は「自己を犠牲にする行為こそが、真の宗教者だろう」と、しみじみと言ったことを今でも覚えている。
今回のテーマであるガンジー師の「七つの社会的大罪」の一つ「犠牲なき宗教」とは、私の父が語った感慨に尽きるのではないか。
現代の宗教団体は、どれもこれも「もっともらしい言葉を並べ立て、お説教ばかりして、聞く人に一服の清涼剤を飲ませては、有り難味を与えているだけ」で、その実は、大金を手にして、裏ではマネーゲームに明け暮れている。それが宗教団体の正体である。
そこには、「自己犠牲」によって人類のために献身する行為は絶無だ。
自分の身を焼いてまで平和を訴えたベトナムの僧侶こそが、真の宗教者である。
ガンジー師が言った「犠牲なき宗教」意味は、そのことを的確に指摘しており、また、ローマ教会などを痛烈に批判した言葉だと私は考えている。
なお、宗教者、クリスチャンなどが自己犠牲になって他の人たちの命を救った話は、世上多く語られている。たとえば青函連絡船沈没事故での話や、実話を元にしたと言われている小説「塩狩峠」(三浦綾子作)などがある。
真偽のほどはともかくも、宗教の宣伝臭さがある話と、ベトナム反戦僧侶の実録とを同等に扱うことは同等に扱うことは避けたいと思っている。
カテゴリ :
社会と政治
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