本日から時事コラムのカテゴリーに「日本人を考えるキーワード」を新設し、シリーズで書いていくことにした。
【主体性】について考えてみよう。
主体となって働くこと。対象に対して働きを及ぼすこと。自発的能動性。実践的であること。
では、「主体」とは(同じく広辞苑から)。
- 帝王のからだ。(漢書から)
- 元来は根底に在るもの、基体の意。イ.性質・状態・働きの主。例えば赤を具有するところの赤いもの。また、歩く働きをなすところの歩くものの類。ロ.主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観が主として認識主観の意味に用いられれ傾向があるため、個人性・実践性・身体性を強調するために、この訳語が用いらるに至った。
- 団体や機械などの主要な部分。
日本人は主体性がないとよく言われる。心理学者や文化人類学者その他の学者の共通意見である。
では、何故そうなったか。一言集約すると「地政学」的にそうなったのだろう。
※地政学とは歴史、文化、地理、政治、経済、軍事、宗教、哲学、などの様々な見地から研究を行う学問で、いわゆる学際的な学問である。
そして、社会心理学博士の南博氏は著書「日本人の心理」「日本的自我」で、次のように述べている。
日本人の日常的な生活行動をはじめとしt、政治・経済の社会行動、芸術・宗教・教育・科学の文化行動などの日本的な特徴については、多くのことがいわれ書かれてきた。ところでそれらの行動を動機づけ、そこに一貫した方向と色彩を与える心理基盤は、われわれ日本人のパーソナリティに共通すると思われる自我構造にほかならない。
かねがね筆者は、日本人の自我構造に一つのきわだった特徴として、主体性を欠く「自我不確実感」の存在ということを考えてきた。
要するに、南博氏によると、主体性の欠如は「日本人特有の自我不確実感」の存在が大きく影響しているというのである。
なお、この「自我不確実感」について次回に譲るとして、日本人の主体性の欠如は日本人の国民性と言えるだろう。
このような日本の国民性から、日本には民主主義の土壌ができず、折角の民主主義制度を採り入れたものの民主主義は育たず、「多数決原理」だけが横行し、多数の横暴が罷り通っている。
先に広辞苑の「主体」の説明の冒頭に「帝王のからだ」とあったが、民主主義以前の封建社会では、主権が皇帝や君主にあって、民にはなかったことが分かる。
民主主義では主権は民にある。民主主義憲法によって、民が主権を手に入れながら、つまり主体になることができたのに、肝腎要の民に主体性が欠如しているから、その民主主義は“仏をつくって魂入れず”で、結果的に為政者の独裁を許しているのである。
現に我国は官僚独裁国家になっており、国民主権はどこかに消えてしまっている。
主権にしろ権利というものは、権利を主張し、行使をして、はじめて確実にできるものであって、法律に書いてあるから法律が権利を守ってくれるものでは断じてない。
権利は守る努力しないと権利は権利でなくなるものであり、権利の主体は我々国民一人一人であること、そして主権は我々にあることを認識すべきであろう。
決して「官」にはない。「官」は我々が雇った公務員である。それなに何故日本人は「官」を「お上」というのだろうか。国民は認識を改めない限り、我々の支払った税金を「官」による「官」のために自由自在に使われてしまう。
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