投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月24日(金曜日) 13時53分48秒
一通のメールで永田議員が誤りを認め、辞意を党に伝えた、今休養している。
私は昨年9月15日「民主党は自民党に勝てない」と題して、前原氏が代表になることに懸念する意味の記事を書いた。
前原民主党は、“若さ”を売り物にすれば人気を博するという風潮に乗り、大衆にアピールしようという魂胆が見え見えだ。
その魂胆とは、つまり「若さ・ルックス・学歴・経歴」のピカピカアクセサリーをつけて国会という舞台で演じさせれば、国民の人気投票で勝てるという党内人事のことである。
まさに馬鹿げた「議員のタレント化、政党のジャニーズ事務所化」を目論んだのだ。
前原民主党は小泉ショウ劇場と批判しながら、自らもテレビ時代に便乗して、マスコミによる大衆迎合戦略に走ったのである。
前原は自らのホームページで次のように人事方針を書いている。
【成果主義、実力主義人事】
闘 って成果を出す人間を抜擢し、年功序列による機械的人事は行わない。
代表の責任 において、老壮青を問わず実力主義、適材適所の人事を行う。
前原は今“はやり”のキーワードを並び立てて得意満面になっている。そこに深い哲学や先見性や洞察力は欠片もない。
どこかの企業の人事方針丸写しだ。政党は企業か?企業と政党の峻別さえ出来ないのが前原である。
とくに前原は「老・壮・青を問わず実力主義」と言っているのだ。
そこのあたりから、そもそも前原が「若輩の未熟者である」馬脚が見える。
つまり、政治はショウではない。政党はタレント事務所ではない。議員はタレントではないのだ。それが分かっていない。
政党は政策で闘う集団である。まず政策には明確な理念と方針と施策がいる。
また、闘うには知識と知恵と信念がいる。そして何よりも必要なのは人間に対する寛く深い愛情である。
それらを総合して考えると、「老壮の深く寛い経験と知識と知恵を“実力”として評価」すべきである。それが分かっていない前原はとんでもない誤りである。
前原は実力主義という言葉遊びをやって、自己満足している馬鹿者だ。
だから私は前原が代表になったとき、「自民党には勝てない」と述べ、小沢一郎待望論を書いたのだ。
もし、小沢が民主党の代表であったなら、今回のような永田議員の勇み足はなかっただろう。
小沢は「おい、それはちょっと待て。もう少しその信憑性を確認して、真実のものであれば、国会に持ち出すが、まず真偽を確かめてからだ」と止めたであろう。
小沢は百戦錬磨で経験豊富な知識と知恵を持っている。
老荘を押しのけて若者が出張って中心になっている前原民主党では発展しない。
人間社会は先哲に学び発展してきた。
民主党には老荘に優秀な人財がいる。老荘は青を指導し育てる。このサイクル古今東西人間社会の発展の基本的要諦である。
にも拘わらず前原は老荘を押しのけて、自らが先頭に立って、経験の浅い知恵不足のタレントを志向する若者を多用し、党を牛耳ってしまった。これで自民党に対抗できると考えている。思い上がりもいいところである。
前原体制は小泉自民党にとってはもっとも組し易い。いわば飛んで火にいる夏の虫である。
自民党が最も手ごわい相手は“いぶしぎん”の小沢一郎である。
「若い人は爪先で、年寄りは踵で歩く」(アルセーエフ「デルスウ・ウザーラ」より)
つまり「高下駄をはいて背伸びするな。しっかりと地に足をつけて歩め。そうでないと転んで大怪我をする」という戒めである。
前原は結局、将来ある青年の永田議員を人身御供にしてしまったのだ。
私は永田議員にエールを送りたい。
「失敗は若者らしい美しいものだ。また失敗は明日の糧になる。失敗をおそれず前向きに頑張れ」
ただし、「得意満面」を戒め、「得意泰然、失意超然」を座右の銘としてほしい。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月21日(火曜日) 14時40分28秒
すでに報道済みの悲惨な事件であった。被害者に心からご冥福をお祈り申し上げます。
そして、かけがえのない我が子を一瞬にして失った親のお気持ちは察すに余りあり、申し上げる言葉はありません。
犯人を憎んでも憎みきれない思いです。マスコミはこの事件を連日採り上げています。胸が締め付けられ、見ているのが苦しくなり、目を背けてしまうのです。
もしこれが我が孫だったらと思うといたたまれなくなります。そしてそのご両親の気持ちを察して再びやりきれない気持ちになるのです。
私はいつも思うのですが、世間一般は「凶悪犯人を“魔女”として断罪して終わり」です。これでいいのでしょうかと。
二度とこのような犯罪が起きないような社会をみんなで考えることが必要ではないでしょうか。つまり、何故このような事件が起きたのか。人が人を殺す、こんなことは信じられません。
ただし、今回の事件はこれまでの事件の一般的な要因とともに、それに加えて別の要因があるように考えられるのではないかと思います。
だから少し視角を変えて事件を考えることが必要だと思うのです。
つまり犯人が外国人であり、かつ中国人だったということです。しかも日本語を十分に理解できず、日本の文化・しきたりなど異文化にまだまだ馴染めない段階での凶行だったのです。
そこで日本人の西洋人とアジア人に対する対応の違いについて明らかに違っているという現実があることを考えなければなりません。
つまり西洋人には親切丁寧ですが、アジア人に対しては低く見下げる傾向があることを認める必要があるのです。
日本は明治の文明開化で西洋文明を取り入れた。そこでまず日本人は最初の西洋コンプレックスをもった。
そして昭和20年に太平洋戦争に敗戦、米軍の占領下に置かれ、アメリカの目を見張るような物質文明に度肝をぬかれた。
つまり日本人は明治の欧化主義と戦後のアメリカナイズの両方が相俟って、加重的欧米コンプレックスに陥ったのである。
一方日本はアジア各国を侵略して植民地にして優越感をもった。そのような歴史が西洋コンプレックスとアジア蔑視が、いまなお日本人の心にあるのではないかと考えられる。
犯人の鄭は中国人である。もし鄭が中国人でなく、アメリカやカナダやいわゆる欧米人だったら、とくに日本人は逆に親切にしていたのではないか。
「グループ送迎において、鄭は全然そのことを理解しなかった」という声が事件後関係者から出たが、東洋人ではない西洋人のほうが日本の文化や風習に馴染みにくい面が多く、むしろ個人主義が発達した西洋人にとっては「グループ送迎」ということを理解しなかったのではないか。
もし鄭が西洋人だった日本人のやり方を押しつけなかっただろうし、それを理解しなかったとしても、とやかく言わなかったのではないか。
異文化社会での生活について、逆から考えてみることも必要であろう。日本人が外国での生活体験を語っている。
それによると外国語が堪能であっても非常に困惑することが多いという。反対に大変親切にして貰い助かった話もある。
そういう経験を持っている人なら日本に来る外国人に対する対応が違い、決して有無を言わせずしきたりやり方を押しつけはしないだろう。
いずれにしても今回の中国人主婦による殺人事件には異文化の側面が覗われるように思う。
もう一つ日本人同士の隣近所の付き合いにおいて、日本人社会における特有の問題が潜んでいると考える。
社会心理学者の南博氏は、その著書「日本的自我」で次のように述べている。『日本人の自我構造のきわだった特徴として、主体性を欠く「自我不確実感」が存在する』。
そのために自己決定の意志力が薄弱で、そこから日本人特有の意識行動がみられる。その一つに集団依存主義になり、自己の意志を集団に同化させて自我を集団我に埋没させる。
そのことにより自己責任からの回避をする。そして集団依存主義はその集団内での自分の位置を安定させる(つまり仲間はずれを極端におそれる)ために、その集団の型を守ることに重点をおく生活意識の定型化を大切にする。
以上のように南氏は述べている。
私は、この集団依存主義による定型化に重要な関心をもっている。つまり集団の型に同化しない異端的な行動に対して、その集団構成員はどのように対処しているか、という点に強い関心をもっている。
この現象は職場、隣近所、学校、仲間等々随所に見られる。結論から言えば、いわゆる「イジメ」という行動をとるのである。
このイジメはあからさまには行われない。つまり陰湿に行われる。最初は心理的な嫌がらせであるが、だんだんとエスカレートし、集団から自発的に退出するまで追い込む。一種の駆除である。
いま子供のイジメが深刻な問題になっているが、実は大人な社会に蔓延しているのである。子供のイジメは大人社会の影響である。
このように今回の事件の被害者の方々には不適切な指摘になるかも知れないが、日本人的自我構造が犯人を精神的に追い込んだ一因になったのではないだろうか。
もう一つ付け加えると、加害者・被害者の問題がある。とくに小泉首相の靖国参拝問題に端を発し、かつての戦争責任問題が再燃している。
そこには加害者の論理と被害者の論理の齟齬が鮮明に見られる。その問題は国内でもある。そこで是非とも伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」(伊丹万作全集1)の一部をご紹介したいと思います。
『さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。
私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。
多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。
たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。
上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。
しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だったのである。
私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。
もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。
しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。
そしてたまたま服装をその本来に扱っている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによって、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。
そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかったと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかった」と。
たとえ、はっきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持っていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。』
この伊丹万作氏の言葉は、社会の問題を考えるとき、戦争に限らず、事件が起きる度に私は思い出すのです。
被害者の深い悲しみを共有しつつも、加害者を憎み断罪するだけでは、マスコミの商業主義と同じではないでしょうか。
人間は経験を知恵に変えてこそ賢明になるのではないでしょうか。経験を知恵にすることは本質に迫り、本質を解明することでしょう。
ただ単に現象を見ているだけでは何の解決にもなりません。
世の中の出来事はどんなことでも他人事ではなく、実は自分自身のことでもあるのです。私はそう思います。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月19日(日曜日) 00時04分29秒
民主党の永田寿康議員が爆弾質問をやった。
ライブドア堀江貴文が「自由民主党の武部幹事長の二男にコンサルタント料として3000万円を振り込むよう指示したという」メールのコピーをで示し、ライブドアとの金銭授受について自民党の責任を追及した。
それに対して、政府与党は事実無根だと否定。根拠なき風説の流布として、逆に永田議員に対する懲罰動議を提出した。また永田議員は政府与党に名誉毀損されたとして懲罰動議をだすという。
どちらが正しいのか。これから双方が明らかにすべきだろう。
ところで、この紛糾した予算委員会でこんなやりとりがあった。
疑惑を持ち出した側が「その根拠を示し、それを立証する義務がある」と杉浦法務大臣が答弁した。いわゆる挙証責任論についての見解を述べた。
このメール問題については自民党側に一理がある。ただし現段階ではの話。
ところで、以前から問題になっている医療事故について、医療ミスがあったと訴えるには、訴える側が「それを立証しなければならない」とされてきた。
しかし、患者側からそれを立証することは至難なことである。つまり医学医療の専門知識がなく、またカルテ等の情報資料やデータは医療側にあり、また証言は当事者である医師と看護婦だから、病院ぐるみで隠蔽される可能性が高く、真実を知ることは困難である。つまり訴える側に立証する責任があるというのであれば、患者側は決定的に不利な立場に置かれることになる。
医療ミスの紛争では、これまで患者側が泣き寝入りするケースが多かったのは、そこにある。
その問題と先程の永田議員の問題とは同一に扱うことは適当ではないだろう。
しかし、疑惑を指摘する側の挙証責任とともに指摘を受けた側も自ら身の潔白を証明することを怠ってはならないのではないか。
つまり、自民党対民主党の“けんか”で済ます問題ではなく、国民に対して問題の真相を明白にすることが国会議員の責務ではないのか。
金銭に授受があったか、なかったのかが問題になっているが、その金銭授受の問題とは、何が問題なのか。つまり金銭の授受に違法性があるのか、あるいは金銭授受の性質が政治家のモラルに反する問題なのか。
また、金銭の出所が堀江貴文個人なのか、ライブドアなのか。もし堀江個人なら違法性はないがモラルは問われても致し方ないだろう。他方、金銭の出所がライブドアなら経理処理上は違法であり、受け取った相手が武部幹事長の親族なら違法である。
いずれにしても、もし違法性があるなら、検察に告発すべきであろう。
それにしても3000万円とは大金だ。政界はいつも“金”にまみれているものだ。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月18日(土曜日) 01時46分32秒
総工費3150億円 関西で第三の空港が開港した。
有権者の1/4の反対署名が議会で否決され、阪神大震災で市民・県民が悲嘆にくれている最中の強行採決に批判が集中した。
また事業計画の杜撰さ、つまり採算性に問題があり、赤字が予測される無理な計画であると指摘されていた。
加えて、航路が危険であると管制官が一応に懸念を示している。
空港を必要とする合理性(費用対効果)に欠け、かつ明らかに赤字が予測され、また事故発生の可能性が他の空港より高いことがわかっていながら、何故無茶な無駄な空港建設を強行したのか。
答えは簡単である。
日本は政官業による税金泥棒組合だからである。つまり公共(?)事業は土木建設業界、談合、贈収賄等々、甘い汁を好き放題吸えるから、“かっぱえびせん”のように「やめられない、とまらない」のである。
ここで株式会社なら、どうなるか。
事業計画書は徹底的に採算性をシビアに予測する。どちらかといえば最も最悪の予測をたてる。(しかし、公共事業は採算の低い予測はカットしてしまう。まるで逆である)
費用見積は相ミツをとり、最も安いところから買う。(しかし、公共事業は談合で殆ど100%に近い買い物、つまり一番高い値段で買う)
かつ、会社なら事業計画どおりに行かず、もし赤字を出して計画が失敗すれば当然責任、つまり負債を背負い、倒産もある。(しかし、公共事業は責任を背負わないですむ。こんなうまい話は世界中探してもない。日本だけだろう)
3150億円の巨額は税金泥棒組合にとっては、ウハウハのよだれがタラタラの美味しい計画である。(泥棒組合員達は結構儲けただろうなあ)
しかし、一番悪いのはそのような政治を選んだ国民にある。関連記事「日本人最大の不幸」(2005・7・7)
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月17日(金曜日) 00時57分00秒
イラク人収容者虐待、未公開映像 豪テレビが報道
2006年02月16日22時51分
オーストラリアのSBSテレビは15日夜の報道番組で、04年4月に発覚したイラク・アブグレイブ刑務所での米兵によるイラク人収容者への虐待事件に関連し、これまで公表されていなかった写真や映像を報道した。イスラム教の預言者ムハンマドの風刺漫画問題でイスラム教徒の抗議運動が世界各地に広がる中、米国防総省報道官は「報道は火に油を注ぎ、暴力をあおる可能性がある」と懸念を表明した。
米国防総省関係者はAFP通信に対し、報道された写真のうち14点が、国防総省が入手したものと同一であると認めたという。
新たに報道されたのは、全裸の男性や、頭に袋をかぶせられベッドに縛り付けられた男性、血まみれの遺体と見られる写真など。収容者が頭を壁に打ち付けている映像や、性的行為を強要されている映像もあった。いずれも、すでに報道されているものと同様03年後半に撮影されたものと見られる。
番組の制作責任者によると、すでに公開されているものも含めて数百点の写真や映像を入手したが、「中には生々しすぎてテレビで放映できないものもある」という。入手経路は明らかにしていない。同刑務所で暴動が起きた際、鎮圧のためにゴム弾を使い果たした米兵が実弾を使用した疑惑を取材する過程で入手したという。
SBSの報道を受けて、中東のテレビ局アルジャジーラやアルアラビアもこの問題を報じた。
この件について米政府が公表しなかったことに対する米報道官の弁明が傑作である。
つまり、公表しなかったのは「イラク人のプライバシーの侵害になるから」と言ったのだ。
米国は捏造した情報を大義名分にしてイラク戦争をやり、イラク国家を破壊し、イラク人民の多数を戦争の犠牲者にしながら、その米国が「イラク人のプラバシーを守る」とはどこまでイラク人をバカにすれば済むのか。
米国は世界の警察を自認しているが、世界のヤクザ国家ではないのか。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月16日(木曜日) 10時56分34秒
昨日の国会予算委員会での質疑応答をテレビ中継を見ていたら、相変わらず、“ぬらりくらり”の国会答弁。
今更、改めて言わずとも、何十年もこういう国会を続けている。これが日本の最高決議機関かと思うと国民として情けなくなる。むしろ腹立たしく思う。
今は年金暮らしで国会中継を見る機会が多くなった。今までは忙しい現役生活で国会中継を生でみることが少なかった。最近実際に中継を生で見ていると、改めて考えさせられた。
現役時代は、国会論議を極々一部だけ切り取ったニュースを見るだけだった。そのような報道では正しい政治判断はできないことが分かった。
また、マスコミは信用できないことを思い知らされた。とくにNHKのニュースは政府の広報室ではないかと疑わしくなる。
(NHKが国会中継をしていることは、国民から受信料を徴収しているから当然である。しかし中継は国民の殆どが働いている時間で見る機会がない。ならば録画でもいいから、全部を再放送すべきではないか)
つまり、「見ると聞くとでは大違い」で、為政者にとって不利なことについてマスコミは報道しないのである。生で見ることが、いかに大切かを痛切に感じた。
とくに、相手が米国となると米国の代弁者さながらである。さながらというより現実は米国の利益代表者である。
日本は自主独立の主権国家という体裁を整えているものの、内実は米国の52番目の州となんら変わらない。
逆に、日本は米国合衆国の日本州と仮定すれば、そのほうが整合性がある。
私がいつも苦々しく思い、腹立が立つのは、日本人だからである。
しかし先程の米国の52番目の州だと仮定すれば政府答弁は「なるほど」と思える。
これが日本の実態である。日本国内で米軍の兵士が事件を起こしても日本の警察は即逮捕もできないことから言っても明らかである。
たとえば日本の自衛隊である。過去から現在まで米軍戦略の一翼を担わされており、軍事教育訓練は米国の指導下にある。これが実体だ。
つまり、日本の自衛隊ではなく、米国「日本州」の州兵なのだ。このことを政府は日米同盟と説明しているが、同盟は平等対等な条約でなければならない。
郵政民営化も同様である。今更言わずとも、米国の強い要望であったことはもうすでに明らかになっている。
米国からの日本に対する年次改革要望書に従い、日米双方の郵政民営化チームで打ち合わせた結果が国会に提出されたものだ。
つまり、米国の禿鷹ファンドに350兆円をくれてやろういうものだ。
BSE問題はその最たるものだ。
米国から牛肉を買えと言われ、「はい、かしこまりました」と急いで輸入に踏み切ったのだ。
安全性確保するための現地調査をしていない。このことは国会で明らかになっている。国民の命の安全より、農畜産国家の米国の利益を優先したのだ。
昨日の国会中継を見ていたら野党各党がその点を厳しく追及していた。中川農林、川崎厚労の両大臣の答弁は“居直り”そのもので、丸で米国政府高官かと思わせる。
とくに日本共産党の高橋議員の質問(質問持ち時間はわずか16分)は日米の対等な関係に疑問を投げかけていたのが印象的だった。(下記)
「米国でBSE(牛海綿状脳症)感染牛が出ても輸入停止しない」――昨年十二月の米国産牛肉の輸入再開にあたって、日米政府でこんな「合意」を再確認していたことが、十五日の衆院予算委員会で明らかになりました。日本共産党の高橋千鶴子衆院議員が、昨年十二月に日米で合意したBSE危険部位の範囲などの「家畜衛生条件」に対する米農務省の「感謝」の返書(十二月九日付)を示し、日本向け米国産牛肉には甘い基準を押し付けられていると、追及しました。
返書は、危険部位除去の範囲や月齢条件を定めた「家畜衛生条件」の承諾と「感謝」を表明した、農水省あての英文書簡。このなかで、米農務省は一昨年十月に日米で合意した内容の再確認をしたいとして「少数の追加的BSE事例が確認されても、輸入停止しない」と念を押しています。
高橋議員はパネルを使って、牛肉を米国へ輸出する施設は米政府が毎年査察を実施し、米国内の基準にあわせている事実などを示し、対等な条件になっていないことを明らかにしました。
また、中国の口蹄(こうてい)疫対策で日本の査察が二〇〇〇年から二十回、のべ千五百七十日になっている一方、米国産牛肉輸入での査察は事実上形だけとなっています。
高橋議員は「米国と日本は対等なのか」「日本と同等の基準で対策を求めていくべきだ」と小泉首相に迫りました。
小泉首相は「(日本と)米国と安全基準が違いますから、(米政府は)日本の安全基準にしたがってもらわなければならない」と答弁しました。(しんぶん赤旗より)
私は日本人である。日本人としての誇りと魂を大事にしたい。いかなる国の従属も許さない。
小泉政権、自民党政権の対米従属政策には断固反対し、いかなる国とも対等な関係を構築する外交政策をすべきであることを強調する。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月15日(水曜日) 13時52分08秒
麻生外相の靖国参拝発言など、米紙が社説で批判
麻生外相の靖国参拝発言など、米紙が社説で批判
【ニューヨーク=共同】13日の米紙ニューヨーク・タイムズは「耳ざわりな日本の外相」と題した社説を掲載、靖国神社参拝などに関する麻生太郎外相の一連の発言を取り上げて「麻生氏の外交センスは歴史センスと同様に奇妙だ」と評した。
社説は、麻生氏が天皇に靖国参拝を求めたり、日本の植民地支配時代に台湾の教育水準が上がったなどと述べたことを紹介し、こうした「ひどい発言」がアジアの隣国を怒らせていると指摘。
社説は「どの国の国民も、できれば自国の歴史のすべてを誇りにしたいと考えているが、賢明な人々はそれが不可能であることを理解し、正直な人々は過去の過ちを学ぶ必要性を認識している」とした上で「麻生外相は賢明でも正直でもない」と述べた。 (19:01)
麻生外相の祖父は吉田茂元総理大臣、父も元衆議院議員、本人は現在麻生セメント社長。いわば何不自由のない親の七光りで育ったボンボン。
麻生外相の言動は以前から、高慢ちき・横柄・不遜な態度が目立っていた。
日本国内ではそれで通用したのかも知れない。しかし外交はそうはいかない。
つまり、外交は日本と世界との付き合いである。
人間で言えば他人との付き合いである。家庭も同じ事。
いくら家庭で威張り散らしていても、それは家庭内の問題である。一歩外へ出れば只の親爺だ。また、会社の社長であっても社外にでれば只のおっさんに過ぎない。
ましてや外交は国と国のお付き合いである。日本国内で威張っているから、外国に向かっても国内と同じような考え方では通用しない。
麻生外相は余程の「井の中の蛙」ではないか。
小泉首相は靖国問題について、批判しているのは「中国と韓国だけだ」と誤魔化しているが、実際はアジアをはじめ世界各国から非難されているのである。(以下参照)
東南アジアでも反発と懸念 小泉首相の靖国参拝
【バンコク25日共同】小泉純一郎首相は25日の参院本会議で「アジア諸国で中国、韓国以外に靖国参拝を批判する国はない」との認識を示した。しかし、東南アジア諸国連合(ASEAN)内には「参拝すべきではない」(マハティール前マレーシア首相)という反発と同時に、日中・日韓の関係悪化が地域の安定に及ぼす悪影響を懸念する声がある。
シンガポールのリー・シェンロン首相はマハティール前首相と同様、靖国参拝について「旧日本軍に占領された経験を持つアジア諸国に不幸な記憶を呼び起こす」「旧日本軍が間違った行為を犯したという認識を持っていないのではないか」と手厳しい。
(共同通信) - 1月25日20時42分更
同じ第二次世界大戦の敗戦国でも、ドイツの戦後とは雲泥の差がある。「ドイツの歴史認識」をご覧下さい。
日本の顔である総理大臣・外務大臣がこの程度では日本人として恥ずかしいかぎりだ。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月14日(火曜日) 14時38分27秒
養老孟司氏は「バカの壁」 「逆さメガネ」 「死の壁」を書き次々ヒットを飛ばし、今回は「超バカの壁」を発行した。
私は養老氏の本を殆ど購読した。読後感は「どうも釈然としないというのか、丁度“クシャミ”か“欠伸(あくび)”のし損ないのような、後味の悪い気持ちになる。読んだ後で金を返せと言いたくなる。
こんな事を言うと、養老氏は「そんなことは私は知りません。それはあんたの勝手です。」と言う人であろう。
養老氏の論拠は殆どが自分自身の体験で、どちらかと言えば体験談か自分史のようなものである。
ただし、本の題名のアイディアは世間にうける。中身は先に述べたとおりだが。
もう一つ褒めるなら、ものの見方や発想や視点・視角が面白いことだろう。面白いというより、皮肉屋なんだろう。
いずれにしても、養老氏は社会科学音痴である。
もともと、解剖学が専門だから、自然科学分野の人であることは分かっている。
しかし、余りにもトンチンカン。トンチンカンでもいいのだが、東大卒の東大教授(元)という履歴を売り物にして本を出すなら、トンチンカンでは読者をバカにしている。
もともと、バカ、バカを平気で書く人だから、自分以外の人間は皆バカと思っているのだろう。本当に賢い人は人をバカ呼ばわりしないと思うのだが。(ただし、私は賢くない人だから、バカ呼ばわりさせてもらっているが)
とくに養老氏は学生をよくバカよばわりする。少なくとも教師であるなら、育ててやろうと努力するのが教師という職業ではないか。
また、今日の学生をバカというのであれば、何故こうなったか、今の偏差値教育が正しいのか間違っていたのか、そして本当の学力とはなにか、という教育論を展開してこそ学者ではないか。
つまり科学的方法によって教育を述べてこそ、学者の値打ちというものではないか。
そして学生をバカよばわりする前に、その学生世代の親世代である本人世代の有り様をも自己批判すべきではないか。(参照)
それはそれとして、先般米国の副大統領が猟銃を誤射して仲間に重傷を負わせた。
その公表を遅らせたとして、非難の渦中にある。
もし、この件について、コメントを養老氏に言わせれば、「そんなことはプライバシーだから、いちいち公表する必要はありません」というだろう。
養老氏は「超バカの壁」のなかで小泉首相の靖国参拝について、次のように書いている。
靖国神社に参拝するのは小泉首相の勝手です。憲法で「思想および良心の自由」「信教の自由」は保障されているのです。ただし政教分離なのですから日本国総理大臣と署名して参拝するのだけはやめればいい。個人で参拝する分には自由です。だから極論すれば、オウム真理教に入ろうが何をしようが完全に個人の勝手です。オウム真理教信者であることを隠して立候補したらまずいでしょうけれど、それも本来は訊かれない限りいう必要はない。ですから首相にいちいち「参拝しましたか」と問うこと自体が余計なお世話です。記者に訊かれたら「内緒です」と言って一向に構いません。個人の問題ですと言っておけば、それでおしまいです。それ以上突っ込むのは、それこそプライバシーの侵害です。
さらに、「中国 韓国は放っておく」と次のようにも述べている。
靖国神社への参拝に反対している人は、中国や韓国の気持ちはどうなるのかとおっしゃるかもしれません。しかし靖国問題について彼らがいろいろというのは、実は害がないからだろうと思います。彼らとしてはこの件で文句をいうのが一番都合がいい。もし日本にまじめに抗議して、東芝は出ていけなどと言って、本当にそうなったら彼らも困るわけです。それで彼らは日本に文句を言える。日本人も、向こうは害がないから言ってるんだろうとニコニコして聞き流せばいいのです。それをまじめに相手にする人がいるからややこしくなる。余計なお世話です。放っておけばいい。だれも損をするわけでもあるまいし、損をするわけでもない。もしも首相が靖国神社に行ったから損をした、という人が日本にいるとすれば、そんな商売はするなといいたい。
養老氏は憲法九条を守れと言っていることは正しい。しかし靖国問題については歴史観が全く欠落している。
靖国神社は日本軍国主義の象徴であったし、それによって東南アジアを侵略し、日米開戦に至ったのである。そしてその戦争責任者を合祀し、いまだにあの戦争を賛美している。そのような靖国神社を参拝すれば、その被害国である中国・韓国は勿論のことで日本人自身からも非難される問題である。
また、一国の総理大臣は国家の最高の公職である。その公職にあるものにとっては“私”の行為がなんであれ、その行為が結果として“不適切”ならばプライバシーとして許される問題ではない。
米国のチェイニー副大統領の猟銃誤射は全く個人的な遊びでの事故だったのだが、公表が遅れただけでも問題になったのだ。
公職にある人にとってはプライバシーとの区別そのものが付けられないのが、そもそもの公職である。
もっと養老氏にあきれたのは、損か得かの損得勘定で善悪を仕分けていることだ。他国との関係をビジネスライクだけでしか考えることが出来ないのか。
あきれてものが言えない。この程度の“おつむ”の人が東大で教鞭をとっているから日本がおかしくなったのではないか。
人の死体を解剖ばかりしていると、人を物扱いし、人がバカに見えるのか。また昆虫ばかりに興味があるから、人が虫に見えるのか。
そんな「バカの壁」に囲まれている養老氏こそ自戒すべきではないか。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月12日(日曜日) 01時17分55秒
私が社会評論エッセイや時事コラムを書き始めて約一年が経過した。
いま、新しいテーマで社会評論を草稿中である。
最近、書くことの難しさと、書くことのエネルギーの消耗の大きさを痛感している。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2006年2月10日(金曜日) 00時01分02秒
小泉首相は靖国参拝問題について「心の問題」だとして弁解している。
つまり、小泉首相は「私の心の問題だから、他人が口を挟むことはしてもらいたくない、また口をはさむことが問題だ」と言うのである。
いつもながらの詭弁のワンフレーズである。
確かに一般的にいえば、自分の心の問題について、他人にとやかく言われる筋合いはない。
心とは、自己の内面の心理作用だから、他人が知るよしもない。
だから、或る行為について「これは私の心の問題です」と言われると、誰も反論できなくなる。
さすが詭弁名人の小泉首相らしい弁明だ。
ただし、大半の衆愚には小泉首相の誤魔化しは通用しても、その他の人には通用しない。
小泉首相の心は、小泉首相以外の誰にも分からない。つまり、心に客観性は無いのである。
小泉首相は従来から、「今日の日本の平和は、ここ靖国神社に祭られている犠牲者のお陰だ。そしてその英霊たちに感謝の気持ちを捧げ、また二度と戦争をしないという不戦の誓いをするために参拝している。」と靖国神社参拝の言い訳をしてきた。小泉首相の心とは、このことだというのであろう。
言っていることはごもっともだ。いつもながら小泉首相の「美辞麗句」は上手だ。
しかし、それが真実かどうかは小泉首相しか知る由もない。脳みそなら開けば中身が見える。しかし心は脳みそではないから、取り出しても本当かどうか分からない。
口は方便なもので、何とでもいえる。
仮にその心が本当であっても、敢えて靖国を参拝せずとも他にいくらでもその心を表すことはできる。なのに靖国に拘泥していることが問題なのだ。
さて本論だが、「心の問題」とは「動機」であろう。
つまり靖国を参拝するという行為に至った心、すなわち動機である。
「動機」という言葉はよく刑事事件で使われる。殺人なら、怨恨か強盗か、色々と詳細に動機を探っていく。その動機である。
動機は「行為を促した心の作用」である。つまり、行為に及ぶに至った動機は何か、となるのであって、行為に及び、且つ結果が生じなければ動機は問題にはならない。
靖国参拝が問題になったのは、参拝した行為が問題になっている。誰も参拝した動機(心)をとやかく言っているのではない。
行為には必ず結果が生じる。
結果が良くなければ、その行為の是非が問われる。要は結果次第である。
(なお、行為と結果については、法哲学、特に刑法で違法性の時点が論争になり、行為無価値論違法性の本質を行為の規範違反性に求める見解をいい、人的違法観ともいう。と結果無価値論違法性の本質を法益侵害という結果に求める見解のことであり、物的違法観ともいう。が対立している。また、二元論を支持する学者もいるが、どちらかといえば、今は結果無価値論が優位のようだ。ただし、日本の判例実務は行為無価値論的な立場を採っている)
結果が悪いからその行為が問われるのである。
もし結果が、万人が見て良いのであれば、誰もその行為を問題にはしない。むしろ賞賛される。
例えば、身の危険をも省みず人命救助をした行為は、万人が賞賛するであろう。
結果が全てであって、だからその行為が問題になる。
その動機、つまり心は客観的に判断できない。
小泉首相に言わせれば、靖国を参拝した動機、すなわち心が正しければ、その行為は、結果がどうであれ、そんなことは問題ではない、というのである。
−(かってホリエモンが「そんなことは法律のどこにかいてあるのか」と法律に触れてないこと、そして法律に触れていなければ何をしても良いと言う意味のことを言ったが、小泉はそれと同じ事を言っているようなもの。)−
その考え方を敷衍化すると、「心、つまり、A:動機が正しければ何をしても良い。そして結果がどうであろうと良い。」ということになる。
このことをもう少し詳しく述べてみたい。
動機、すなわち心には客観性がない。つまり本人の内面であって、動機は本人しか分からない。
しかし、行為と結果は客観的に事実としてはっきりと分かる。
その行為の結果生じたことについて、その正否・善悪・是非を問われたときに持ち出すのが「動機=心」であり、いわば「言い訳」である。言い訳は本人が、どのようにでも言うことができる。
言い訳の正当性は、他人に判別不可能である。他人が判別不可能な言い訳を主張して、自分の行為と結果を正当化することは不可能ということになる。
つまり、Aの「動機が正しければ」は「行為と結果は正当化される」という論理は成り立たないのである。
小泉首相のこの詭弁、つまり「私の心の問題だから、他人が私の行為を問題にすることは許さない」という言い訳が正当化されるならば、この世の犯罪者は一人残らず無罪になってしまう。
こんな小泉首相の“自己中心的自己愛(ナルシスト)の口先政治”をやられたのでは、国民はたまったものではない。
(注:一般的に人間はナルシストに騙される傾向がある。何故なら、ナルシストを見ていると自身満々である。だから信頼され易い。)
ところで、それと同じことをブッシュ大統領がやっている。
いわゆる盗聴問題である。
つまり、テロの犯人捜査ならびに防止のために、米国では盗聴を容認している。それが米国のみならず世界中で非難され、大問題になっている。
テロ撲滅を理由にすれば何をやっても良い、という考え方は非常に危ない。
為政者はいつも大義名分(テロ撲滅等)を掲げ、戦争をした。それが戦争の歴史である。太平洋戦争で「鬼畜米英」と言ったように。
大衆は大義名分に酔いしれるものだ。
米国はイラク戦争に際して、「大量破壊兵器を製造し持っている」ということを大義名分とした。つまり戦争を始める動機(つまり心)にした。
蓋を開けてみれば事実無根だった。しかし、イラクの油田利権は米国資本の手に入った。
そうなると、ブッシュ大統領の本当の心は何処にあったのか。
心など誰にも分からない。
結果が重大で行為が問題なのだ。
心には客観性がないから、口では何とでも言える。嘘も誤魔化しもある。
口は重宝なもので、常に欺瞞性がある。
口に誤魔化されないように事実(行為と結果)をしっかりと確認しよう。