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時事コラムを中心に、社会評論エッセイや名言・格言・諺の解説を掲載

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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月31日(土曜日) 14時42分59秒

今年一年間現代世相を斬りまくってきた。

その締め括りを「小倉百人一首」ならぬパロディーの「原野辰三の時事狂歌集」にして纏めてみた。

東風吹かば 思い届けよ 待つ家族 便りなしとて 望みは捨てず
拉致家族

戦犯も 死ねば仏と 参拝す 小泉総理に 拍手送る
ヒトラー

靖国を ワープロ打てば 誤変換 出てきた文字が 安い国とは
中国製パソコン

イラクには 核の兵器が 在るといい 油田をとれば 無かったといい
ブッシュ

イラクでは 死人の山を 築いたが ジャズの町には 土手を築かず 
ニューオーリンズ住民

カトリーナ 昔はモニカ みなおんな 女に弱い 大統領
ブッシュ&クリントン

日本では テロより怖い 爆破ある 時限爆弾 アスベストの綿
中皮腫被害者

時は金 金のなる木は 運転手 スピードあげて 走れや走れ
JR

株式を 公開せよと 村上は ファン名乗るが 半信半疑
阪神ファン

構造で 途方にくれて 泣く声に 幾夜ねざめぬ 国の関守
マンション住民

こうすれば こうなるものと 知りながら ついぞかぶった 偽装のかつら
姉歯元建築士

売った後 あとは野となれ 山となれ むべ倒壊を 地震といふらむ
ヒューザ

人はいざ 心は知らず 地元では 刺客に群れる 風見鶏たち
郵政造反組

これやこの、あれやこれやと みだれ食い 知るも知らぬも 大阪の関
大阪市

チルドレン こんなに多く 生んだのに 少子化には 何も策なし
小泉首相

ちはやぶる 神代もきかず 証券は 株くれないで 金くれるとは
ジェイコム株購入者

われが今 こうしてあるは ほかならぬ わが師の恩と 亡き仰木みる
イチロー

惨敗の 最下位チーム 引き受けた うちの旦那は 楽天家だわ
沙知代夫人

千秋楽 前人未踏の 金字塔 立てて思わず 我が涙かな
朝青龍

造反に 刺客を放つ 時代劇 劇場出れば 増税の嵐(らん)
小泉ショウの観客

憲法を 変えて再び 如何にする 武器で平和は 実現難し
反戦平和願う人 

紅白に みののもんたを 起用し 視聴率が ファイナルアンサー
NHK

ゆく年も またくる年も わが心 悟りの道は いまだ遠けり  
原野辰三 

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月27日(火曜日) 19時21分33秒

JR転覆脱線事故が福知山線につづき羽後線で起きた。

時限爆弾といわれるアスベス禍による中皮種死亡が多く確認された。

米国の牛肉輸入が再開された。

姉歯問題で耐震強度偽装で建物が危ない。

また、自然災害で多くの命が奪われた。

テロも頻発した。

イラクでは多くの戦争犠牲者が出ている。

幼い少女の命が奪われた。

交通事故死も一万人に近い。自殺者は3万人もいる。医療ミスが後を断たない。

殺人事件も増える一方だ。

世界では年間約1000万人の子供が餓死している。

また、エイズの死亡者が何百万人もいる。

兎に角、人の命が軽々しく奪われ失われていく。

「人命は地球より重たし」といったのは口先だけなのか。

いずれにしても現代は安全が脅かされており、安心に暮らせなくなった。

私は日常生活の中でいつも思うことがある。

人は、一旦事故が起きると、JR事故のように「責任者」に対して「安全意識、安全対策」が欠けていたと追及する。当然,追及し糾弾すべきである。

ところが、一方で日頃の人の行動を見ているとどうだろう。例えば歩道を歩いていると、自転車が遠慮なくスピードを出して行き交う。

あんなスピードでは人身事故が当然起きるだろう。また車の運転をみても同じだ。

とにかく、「あんなことをしたら危ないのに」と思うことが日常茶飯事の中で多く見られる。

つまり、「こうすればこうなる」と想像なり想定して行動すべきあるのに、そのようなことはお構いなしの人が余りにも多過ぎる。

もう少し簡単に言えば「他者への配慮」が欠けているのである。

人の命はかけがえのないもの、二度と戻ってこないもの、という人間にとって最も重要な心が欠如していると断じなければならない。

安全な社会作りは、国民が等しく自らの「安全思想」をもち、自らの「安全思想」をもって行動することが基本である。

つまり、「安全思想」は「人に対する優しさと愛」から生まれてくるのである。

その「人に対する優しさ・愛」の原点は「他者への気配り、気働き」である。

今の日本人に何が欠けているのかと言えば「他者への気配り、気働き」である。

先に述べた自転車や車の運転などなどの日常生活のなかで見ていると、そう言わざるを得ない。

お互いに「ちょっとした心づかい」さえあれば安全で安心できる社会に大きく変わると思うのだが。

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月26日(月曜日) 13時01分30秒

白くまピース ~日本初・人工哺育の全記録~

掲題はNHKドキュメンタリー放送の題名で大きな話題になった番組である。

ピース育ての親、高市敦広さんの記録である。また高市さんの家族(奥さんの由美子さん、長女の菜摘さん、長男の賢悟さん)全員の愛情物語でもある。

このドキュメンタリーの感想を述べてみたい。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月25日(日曜日) 11時48分13秒

クリスマス(英:Christmas,Xmas)とは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝うキリスト教の記念日・祭日である。12月25日がこれに当たるが、その前日をクリスマス・イヴというそうだ。

昨24日の我が家は2歳半の孫のためにケーキづくりで大童。クリスマス・イヴのケーキパーティは、孫が眠気を催して無事終了とあいなった。

私が勤務していた職場でも毎年クリスマスパーティがあった。

我が家でもクリスマスパーティをしていた。

最近はキリスト教式の結婚式が多い。

ところで、よくよく考えてみると我が家はキリスト教ではない。一人も信者はいない。(我が家の先祖代々日蓮宗、妻の父は曹洞宗の住職だった) 

また、よく結婚式に招待されるが、新郎新婦そのご両親にキリスト教の信者はいないのにキリスト教式の結婚式である。

何故、キリスト風が多いのか不思議だ。結婚式は儀式ではなく、イベントになったのであろうか。

他方、葬式は仏教、初詣はお寺や神社、七五三は神社でする。

日本人は多神教だという人もいるが、果たして“多神教”かというと、その意見にも納得がいかない。

多神教とは一神教に対する反語として使われる。

イスラム教・キリスト教・ユダヤ教・ヒンドゥー教の国や民族や地域の一神教の人々のように、日本人はそれほど信仰心は強くないようだ。

それが奏功して、日本は一神教や原理主義者に見られるような対立抗争がない。
この点は良い点と言える。

ここで私の簡単な「日本文化と異文化」論を述べてみたい。

まず日本人には歴史的に、文化・信仰において、また文明において雑食性がある。

そもそも文化の根底をなす言語が中国の漢語である。また仏教も伝来した宗教だ。

神道について朝鮮の渡来人がもたらしたと言う説がある。

また、高松塚古墳の壁画などを見てみると、服飾等朝鮮民族の風俗が描かれている。

科学技術においては建築(木造)や製鉄は朝鮮から学んだ。陶磁器もそうだ。

そういう観点から考えてみると、日本古来の伝統文化といっても、外来文化の合成文化である。

ただし外来の文化ではあるが日本で独特の発展をしたことには違いない。

本来、文化は国境を越え、民族が移動し、互いに交流し影響し合いながら発展をしていくもので、地球上の文化に純粋も純血もあり得ない。

特に国境が陸続きならば、相互に影響し合う度合いは大きい。

日本は周囲を海に囲まれているために、陸続きで境界を接している場合とは違って、文化の交流や影響の仕方や度合いが違う。

すなわち、海に隔てられた境界が時間的・空間的な間合いをもたらし、その間合いが異文化導入に際して重要な役割を果たしているのである。

つまり、その間合いが濾過装置となり、食わず嫌いにならずに雑食性を促し、独自の受け入れ方ができたのである。

先程、日本文化は外来文化の合成文化といったが、決して悪い意味で言ったのではない。

合成には混合と化合がある。

日本文化は化合であるからこそ独自・特有の文化とした育ったのである。

換言すれば、日本に適した品種改良文化ともいえので利点が多い。

いずれにしても日本は異文化の移入や利用が上手であり、かつその外国文化を学習して日本の土壌で育てたのである。

ところが戦後は異文化の移入・利用は上手なのに、異文化の受容には消極的で、かつ理解する努力を怠り、異文化の歴史と土壌までは受容しなくなった。

本来、物は文化と一体のものである。外来の物は異文化とともに入ってくる。

しかし戦後は文化と切り離して物を移入した。

その背景には航空機・船舶等の交通輸送手段の発達と情報通信技術の発達があり、そのことが先に述べた間合いを狭めた一つと考えられる。

それより、大量消費時代が生み出す便利主義、商業主義とマスコミ・マスプロが物だけを取り込み、物の移入に際して“文化”を積み残したのだ。

逆のことがある。日本の物づくりは世界一である。そして世界に輸出して日本製品は高い評価を受けている。

たとえばトヨタ・ホンダ・ソニー等々日本製品のブランドは世界で知らない人がいない。

それほど世界的に日本製品が有名でありながら、“日本”という国、日本の文化については殆ど伝わっておらず理解されていない。

つまりホンダは知っているが日本は知らないのである。

物に文化を添えて輸出することを怠った結果である。物と文化は一体であることを再認識すべきではないだろうか。

いずれにしてもマスコミに乗せられ易いのが日本人の国民性である。

たとえば、2月14日のバレンタインデーのチョコレートはその典型であろう。

チョコレート企業の戦略なのだ。

歳末商戦はクリスマスセールで売上をはかる。

国民もジングルベルのメロディーにのせられて購買心理を刺激される。

商業主義といえば、日本の葬式仏教もその一つだろう。

私はここ10年間で両親、妻の両親、弟夫婦の両親、兄と相次いで亡くした。

葬式は葬儀社がすべて取り仕切ってくれる。

その葬儀費用の内訳詳細について疑問すら考えたこともなかった。

人の死に対する人間の心の弱さの象徴であろうか。

最近、この葬儀費について、消費者団体などが公正取引という観点から問題視する意見が出されている。

それに伴って、お寺の金儲け主義が明らかになってきた。

戒名を付けて貰うだけで何十万、戒名によっては何百万もとるという。

ちなみに我が家の祖先位の戒名をつけて貰おうとすれば、今なら最高の値段を取られるという。

ただし県知事以上の役職を歴任していなければ無理らしいが。馬鹿馬鹿しい限りだ。

それは兎も角、私も日本人だから、ご多分にもれず、仏教については興味がある。

特に40年前にノイローゼ気味で銀行を3ヶ月休職したときは座禅修行もした。

(結局は先輩のすすめで始めた合気道の運動療法が奏功して完治し、以後私のライフワークになり、大学や市立道場で師範をすることになった。)

私は6月14日のブログで仏教について少しふれた。

私は松原泰道・ひろさちや・梅原猛・紀野一義など各先生の本を愛読している。

ただし宗教団体に入ることは一切ない。がしかし仏教哲学は好きである。

仏教哲学が好きだからといって、私は観念論や唯神論者ではない。

どちらかといえば無神論の唯物論者であり、唯物弁証法の物の考え方である。

それであっても、人の死に直面すれば、何か宗教的な心境に陥る。

そこが人間弱さであり、人間の本質であろうか。

その人間の弱さにつけ込む葬式仏教の金儲け主義はなんとも悲しい。

一昨日の23日は兄の一周忌法要があって親戚一同が集まった。兄嫁に代わって私が挨拶した。

その中で「法事は、亡き人の縁で結ばれた人達が一同に会し、亡き人を偲ぶ事であるとともに、遺された私たちの縁を大切にしながら仲睦まじくする機会を仏様が与えてくれたものである」というようなことを言った。

仏事にしろ、法事というものは形式的なものではなく、その意味合いを大事にしなければならない。

日本には昔から「仏を彫って魂いれず」という諺がある。

現代の日本人は形式や外見に拘るが、肝心の中身が空虚であったり、粗悪である。

クリスマスを祝うキリスト信仰者には2000年以上の歴史があり、クリスマスはその歴史の大事な所産である。

キリスト信仰者でない日本人が、クリスマスケーキやバレンタインチョコレートを上げたり貰ったり食べたりすることに“とやかく”言うつもりはない。

“とやかく”言えない事由がある。それは400年の歴史の所産だから。

つまり、徳川300年の鎖国から明治維新で開国した。その際一挙に外国の文化・文明を移入し、日本人にとってその外国文化・文明はドラスティックなことであった。その時期から日本人の“外国”に対する憧憬が根付いたのである。

開国直後から日本は軍国主義国家体制になり、長期の抑圧と貧困が始まった。敗戦でアメリカ文明を前にして、再び外来文化文明に目を奪われ、二度目の外国文明に対する憧憬が重なった。

日本人の外国への憧れは、こうして、つまり400年の鎖国と抑圧の反動として根付いたのである。それは未だに払拭されてはいない。これは日本人が等しくもっている意識なのだ。だから“とやかく”いえないのである。

とは言いながらも、やはりマスコミ・マスプロに翻弄され、商業主義に踊らされてクリスマスに賑わう“ハイカラ好み”ないし“外国ナイズ”の日本人には首を傾げたくなる。

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月24日(土曜日) 16時30分14秒

年末になると例年、「○○年(代)の世界はどうなる」といった本が書店に並ぶ。またテレビ番組もある。今年、私はまだ見聞きしていない。

そこで、私なりに考察してみた。

物事を考える場合は何事も歴史的に捉えることが肝要で、未来は過去の検証せずして語れない。そのように考えて来年の予測を試みた。

題して「2006年の日本はどうなる」

結論から先に言っておきたい。

すべてにおいて、ますます悪くなる。

すべてとは、国民の暮らしと安全のことである。

理由はただ一つ。「自民党を中心とするオール与党政治が続き、また日本はアメリカの属国から脱却できない」からだ。

つまり、経済・外交・軍事において、日本はすべてアメリカの言いなり、アメリカ依存体質になっているからである。

兎に角、アメリカから「こうしろ、ああしろ」と言われれば、「ハイッ!承知しました」と言われるままになる。

政府は国民に対しては詐欺師だから、美辞麗句を並び立てて手練手管でうまく納得させててしまう。

例えば「これからは国際協調国際貢献をもっとしなければならない。そのためには憲法を変えて、集団的自衛権を明記して、軍事力を海外に派兵できるようにしなければならない」と言っている。

国民は国際協調、国際貢献という大義名分の言葉に誤魔化される。

その真実は「アメリカの軍事費削減ために日本の自衛軍を下請けに使うこと(魂胆)と日本の米軍基地機能の拡大強化をはかること」であるにも拘わらず、それを日本人は有り難いことと思っている。

当然、日本の軍事費はますます増嵩する。その分、日本の国家予算の支出配分は「どこかを削って、軍事費を増やし、あるいは国民からの税金や負担を増やす」ことになる。

また、郵政民営化もアメリカの度重なる要望であった。小泉は「民でできることは民で」「大きな政府から小さな政府」という言葉を使って国民を欺いた。

そして、遂に政府はBSE問題を孕むアメリカ産牛肉の輸入再開を許した。

食品安全委員会の座長を抱き込み、生後20ヶ月、危険部位除去という条件をつけて輸入を認めさせた。その条件がミソである。

条件の20ヶ月や危険部位をどのように検査するのか、検査を受け入れるのかもはっきりしない。

つまり、チェックはアメリカ任せでアメリカのチェックを丸ごと鵜呑みにせよ、というものである。

丁度、建築確認検査と同じようなものだが、建築は国内だから、まだ我々の監視が届くが、アメリカは一切監視できない。

極めつけは、最後の関門である憲法改悪に手を付けだしたことである。イラク派兵はその既定事実づくりであった。その際にアーミテージ元国務副長官が「show the flag」と言ったことがすべてを物語っている。

自衛隊がアメリカの軍事下請けをするには、どうしても現行憲法が邪魔になる。

アメリカべったりの自民党にとっては日本国平和憲法が目の上の“たんこぶ”なのだ。

日本の国内世論を憲法改悪に誘導するために、周辺国の中国、韓国、北朝鮮問題をクローズアップして日本人のナショナリズムを煽って軍事力強化を策謀しているのだ。

今まさに日本の進路は分岐点に立っており、軍国主義化の歯止めになっている平和憲法が危険にさらされている。

世界は中国もロシアもインドも南米もアフリカもヨーロッパもある。「いわずもがな」ではあるがアメリカだけではないのだ。

一方、国内に目を転じてみると、「自民与党の財界べったり、政官業のトライアングル構造」は変わることなく、国民無視、国民いじめの政治は続く。

そして来年以降は増税ラッシュと各種社会保障費や教育費等の負担増ラッシュが相次ぐ。

自民党政治が自らつくった750兆円の借金の財政破綻を国民に押しつけようというのだ。

もうすでに決定された定率減税の廃止、老人控除の廃止、医療費負担増のほか、いよいよ消費税率アップは間違いなく国会を通過するだろう。

株価が値上がりしているとはいえ、大企業の業績が好調なこと外国の禿鷹ファンドによる“買い”で株価が上昇しているものの、国民所得と消費動向は未だに厳しい。

また、大企業の業績は中国の高度経済成長によるもので、国民経済からみれば、景気回復の材料は何一つない

景気がよくなるとは、「国民の可処分所得が増え、消費が伸び、物が売れて、生産が増えること」である。

しかし、「所得は伸びない、失業者が減らない、少子化が進む、負担が増える」、これで景気が良くなるはずがない

他方、外交問題も過去最悪である。アメリカ一辺倒の外交方針は変わらない

先般の東アジア共同体における小泉外交は孤立感が漂っていた。

逆に中国の存在が際だっていた。つまり、アジアにおいて日本はリーダーシップを発揮するどころか中国にその座を奪われた。

その原因はやはり、小泉の靖国参拝にアジア各国が眉をひそめているからである。

来年は小泉が退任し、多分、安倍晋三が新しい首相になるだろう。自民党きってのタカ派である。(政治を劇場と同じ次元でとらえる「ヨン様好きのオバタリアン的レベル」の自民党支持者が6割いるから、安倍人気は高い)

ますますアジアでの孤立を深めるであろう。

最後に地球環境は回復の糸口を掴めずに、ますます悪化を辿るだろう。その一番の元凶はなんといってもアメリカが未だに京都議定書を拒否していることだ。

アメリカは世界の25%を消費する消費大国であるにも拘わらず、“経済優先”を盾に環境問題について無視をつづけている。

最近の異常気象をみると地球温暖化はすでに過去にCO2を排出してしまった問題で、これからどう防止するかという問題ではない。せめてこれ以上増やさないようにしようと苦しんでいる問題である。

つまり化石エネルギーの消費をどう減らすかという問題である。

また、急激な工業化と高度成長経済大国になった中国の公害防止策立遅れが非常に恐い。特に工業廃水や生活排水によって海が汚染され、その海流で日本の近海を大きく汚染するだろう。

日本は地球の一員であり、世界の中の日本であり、アジアの大国である。その日本がアメリカ依存、アメリカ一辺倒で近隣諸国に配慮を欠いていては日本にとってマイナスが大きすぎる。

いずれにしても、残念ながら日本人の意識構造が変わることは到底望めない。

したがって小泉路線の国民いじめの誤魔化し構造改革が国民生活を困窮させ、また日本の政治構造は変わらず、アジアとの関係は憲法改悪でますます悪化するであろう。

まもなく新しい年を迎える。

せめて、石川啄木が詠んだ

何となく 今年はよいこと あるごとし 元日の朝 晴れて風なし

のように新年を迎えたいものである。

なお図解日本総研大予測―2006年の10大ニュースはこうなる!が発行されているのでご参考にしてください。私も購読して、今自分が書いたことを検証してみたい。

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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月22日(木曜日) 00時03分38秒

「川の流れのように」は美空ひばりが歌った名曲の題名である。私の好きな歌の1つでもある。

年末恒例の紅白が近いから歌について述べるために、この「テーマ」を選んだのではない。

早速本論に入る。

川は高いところから低いところに流れる。ごく自然である。ところがブラジルのアマゾン(ポロロッカという)や中国の銭塘江では大潮の時に猛烈な勢いで逆流する。(川津波と呼ばれている)

それも引力の作用である。自然の力には今更ながら驚嘆する。

それはそれとして、川は高いところから低いところに流れる。自然の摂理である。

先般、越前クラゲが大量発生した。中国も加わって各国が対策会議を開いた。

その越前クラゲ騒動も、生活排水、産業排水が川や下水を汚濁し、最後は海に流れ込んで海の自然環境を汚染した結果である。

川の下流では汚染が酷い。ヘドロで悪臭が発生する。耐えかねて浄化をするが、結局は上流から汚染された水が流れてくるから下流を浄水しても意味がない。

上流の住民に合成洗剤等の汚染物質を使用するなとも言えない。汚染しない洗剤は開発されているが値段が高い。その負担を上流住民に負担せよとは言えない。

汚染は下流にいくほど比例的に累積するから下流ほどヘドロが堆積し環境悪化が酷くなる。

今、自然環境の悪化について述べたが、人間の社会環境も全く同様である。

社会は組織である。組織の上は力(権力・金力・武力)をもっている。

組織はその力で支配する。組織は管理機構だが、支配力を円滑に効率的に及ぼすために管理機構の構造設計をする。

管理機構の上から下へ、決定・指示・命令・要求・圧力が流れてくる。流れてくるものに綺麗なものはあまりない。むしろ理不尽な汚いものが多い。

つまり、人間も地位の低い下流ほど汚濁され、ヘドロが溜まる。

今回の耐震強度偽装事件における姉歯は上からの圧力に汚濁された一人といえる。

しかし最も下流が最悪の被害を被ったのである。それが住民である。

企業内でも同じだろう。JR西日本の高見運転手もその一人である。

国家組織も同じだ。最も下流にいる市民ないし国民がいつも割が合わない。国の借金が多いからといって、国民は税金や各種負担を増やされる。

民主主義のルールで国家組織が運営されているというが、その管理機構の構造設計がどこか間違っているのではないだろうか。

具体的にいうと、政官業の癒着という構造設計になっている。

つまり、納税者が懸命に働いて咲かせた花から、甘い蜜を吸いとっては巣に運ぶ蜂のような社会システム設計になっていることだ。

この構造計算書は政官業に利益をもたらし、国民の命と暮らしが危ない計算になっている。 

自然の蜂は花粉を運び、雄蕊(おしべ)と雌蕊(めしべ)を交配させ、繁殖に役立っているが、政官業の“お上の蜂”は花粉を政官業の仲間達に運び自分たち仲間の繁栄に役立てている。

その間違いを正すためには、いつまでも「川の流れのように」漂うのではなく、時にはブラジルや中国の大河のように猛烈な逆流を起こすべきではないだろうか。

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月21日(水曜日) 00時01分59秒

昨日のニュース23のキャスター筑紫哲也は「多事争論」で「腑に落ちない」と題して耐震強度偽装事件について、次のように述べた。 続きを読む

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月20日(火曜日) 03時39分41秒

女児殺人などの信じられない事件が連日多発し,いちいち論(あげつら)えばキリがないほどあり過ぎる。

この現状を見て、これを狂った社会と思わない人いないだろう。

とにかく、11月9日にNHK大津放送局記者の放火事件について述べたとおり犯罪の質が異常である。

では、なぜこのように日本社会は狂ってしまったのか。

その原因は何だろうか。

これを病気に喩えてみる。

熱が下がらない。下痢がとまらない。血圧が上がる。肺を冒され、肝臓機能が低下し、腎不全を起こした。解熱剤を投与、下痢止めを服用、血圧降下剤を投与、酸素吸入をする、人工透析もした。それぞれの処置治療をするが改善しない。

原因が分からない。何か根本的な原因があるはずだ。その根本原因を突き止めないと、いくら治療しても効果はでない。かつ伝染が広がって多くの犠牲者がでた。

いろいろ原因を探っていくと、結局は○○ウィルス菌だった。医学では概ねこのように考える。

社会も同じではないだろうか。何事もその原因を追求していくことが問題解決の手だてである。

狂った社会問題を煎じ詰めていくと、そこには必ず根本原因があるはずだ。

そこで、戦後60年間を振り返ってみることにする。

日本が敗戦した昭和20年は戦争で国家も国民もすべてを失い、国土は一面の焼け野原。また敗戦の数年前から食べるものもなく、国民のほとんどが栄養失調だった。

そして日本の本土は米軍の爆撃で焼土と化し、衣食はもとより住む家まで焼かれ敗戦した。

茫然自失の廃墟から国民は耐え忍び、再び復興の一歩を踏み出した。

戦勝国の米軍は日本に上陸占領した。町中を米軍ジープが走りまくり、そこで目にしたのは進駐軍の物の豊かさだった。

ただでさえ、衣食住に困窮し、どん底生活の最中だから、なおのこと大変なカルチャーショックだった。

それを目の当たりに見た大人も子供もアメリカの物質文明に憧れ、物の豊かさに魅せられ、物の豊かさを貪欲に求めたのである。

幸か不幸か、終戦から5年後の昭和25年に朝鮮動乱が勃発し、米軍の軍事特需で経済復興の足がかりを得た。

引き続きベトナム戦争の特需で経済成長が加速し、重厚長大の工業国としての基盤づくりをした。

政府は国民総生産と所得の倍増計画(1960)施策をとった。

その高度経済成長政策によって国内総生産が急速に伸び、国民所得は増え、物は豊かになり、消費も飛躍的に伸びた。

つまり大量生産大量消費の時代に突入したのである。

その結果、GDP世界第2位の経済大国になり、自由競争の市場原理による経済優先社会と経済効率を追求する管理社会の社会システムができたのである。

そして、GDP世界第2位の自信と誇りをもった日本人は物質文明を謳歌した。

以上が戦後の経済発展の概観である。

では、高度に発展した物質文明は国民の意識にどのような変化影響をもたらしかを次に述べてみたい。

経済大国日本は「物の豊かさ=人間の幸福」という価値観が国民の間に徐々に浸透した。

反対に他の価値観や精神文化は徐々に影を潜め、ついには駆逐されてしまったのである。

また、国民の政治意識ならびに社会意識も物の豊かさによって大きく変化することになる。

その変遷を辿ると次のようだ。

敗戦まで自由を抑圧され、貧困にあえいでいた国民感情の憤懣は、新しい民主主義憲法に触発され、一気に権利意識が目覚め、労働運動や学生運動が活発になり、政治的にも体制批判勢力が台頭した。

ところが、経済成長が進み、物が豊かになった。渇望から解放され、物の充足感によって、社会や政治に対する不満は物の豊かさによって希釈され、問題意識も低下し、あるいは払拭してしまった。

(世界からみれば、日本人は何があっても、怒らない、従順な、物言わない温和しい羊である。摩可不思議な国民である、と異口同音に言われている。その要因は先程述べた辺にありそうだ)

とくに戦前・戦中・戦後の耐乏生活を経験した世代はその時代の生活水準を基準にしている。

だから、社会の問題・政治の問題等を考える時は、「あの時代から比べると今はまだましだ」という結論に落ち着いてしまう。

つまり戦前・戦中・戦後の貧困状態を物差しにして現在を計るから、何事にも満足できる。

米の一粒を奪い合い、拾ってでも食べた世代、つまり現在の80代、70代、60代にとっては「なんだかんだと言っても今は良い時代」となる。

だから、政治・経済・社会・教育等で何が起ころうと、問題意識や批判精神はそれほど高まらない。

そのような世代の価値観が支配的な社会環境の中で教育された子供達は例外なく“物中心の価値観”をもつた人間になる。

つまり、現在の50代、40代、30代がその世代に当たる。

就中(なかんづく)50代は団塊の世代と呼ばれ、現在の80代の子供に当たる。いわば物時代の第二世代になる。

この団塊の世代は戦後の第一次ベビーブームで生まれ、人口構成比の最も多い世代でもある。人口が多いことは競争も激しい。

経済の豊かさは大学進学率を高め、受験競争が熾烈となった。また競争の先鋭化の勢いは学生運動の先鋭化にも影響を与えた。

一部の過激な学生による浅間山荘事件はその象徴だった。この事件は社会から非難の集中砲火を浴び、これを契機にすべての反体制運動は消えていくことになった。

反面そうした若いエネルギーは自由貿易による国際競争に向けられ、ひたすら市場原理の競争に向けられた。

以上が団塊の世代の時代背景である。その団塊の世代の第二世が現在の30代、20代に当たる。

いずれにしても各世代を通して大量生産・大量消費の社会は、国民は物欲を刺激され、物欲に麻痺して、精神の頽廃化が進み、刹那的快楽主義が国民の精神に深耕していったのである。

反対に人間にとって最も大切な思索や文化はその居場所がなくなり、次第に心の隅に追いやられたのである。

総括すると「日本の戦後60年間は“物欲”の加重“相伝”の時代」だといえる。

相伝とは「親から子へ、子から孫へと次々に伝えること」で、「物欲は世代が若い人ほど加重された」と考えられる。

裏返して言うと「年齢に反比例して若者層の心が退廃していったのである」。

私は社会の問題をいろいろと何故を追いかけてみた。その結果、どうやら前述の「加重相伝の物欲社会」に原因があると考えたのである。

つまり、今の50歳世代は80歳世代の、40歳世代は70歳世代の、30歳世代は60歳世代の、20歳世代は50歳世代の、10歳世代は40歳世代の、影響をうけて育ったのである。

「人間は環境の動物であり、人は人の間で人になる」ことは疑う余地はない。

狂った現代社会を考えるとき、50歳代以下40歳代、30歳代、20歳代、10歳代については80歳代と70歳代ならびに60歳代の世代に責任がある。

80歳代と70歳代ならびに60歳代の世代が反省しないで、ただ「今の若い者は・・」と非難するのは無責任というものである。

私は今68歳である。私前後の世代を含め、それより上の世代が現代の狂った社会をつくった張本人である、と私は考えている。

戦前・戦中・戦後の苦難を耐え忍びながら逞しく働き、今日の日本を築いてきた功労世代ではあるが、反面「衣食足りて礼節を知る」と信じたことが裏目にでたことに気づくのが遅かったとも言えるのではないだろうか。遅かったというより、気づいていないのではないか。

ここで「相伝」について補足しておきたい。「相伝」と書くと、教育問題を家庭に特化して捉えられ、誤解を招く心配がある。

私が言う「相伝」とは教育環境全体についての「相伝」であって、決して個人の親を指しているのではない。

つまり、その世代の教育環境が次の世代に大きな影響を与えることを述べたものである。

教育環境とは「家庭、地域、学校、マスメディア(テレビ・ラジオ・書籍雑誌・インターネットなど)、自然環境、都市問題、住宅問題等々いずれも子供の心の発達に多大な影響を与えるから、それらを総括した環境」である。

特に家庭の問題を取り上げるならば、父親の問題があり、日本の労働事情も重大な要因になる。

すなわち世界一長時間労働の日本では家庭にいる時間が少なく、父親は家庭での会話が殆どできない。ここにも子供の教育上重大な問題がある。このように教育環境は日本の労働環境とも連関しているのである。

つまり、教育環境は社会環境そのものであって、“教育”環境などとわざわざ“教育”と付け加える必要がないと考えている。以上「相伝」についての補足説明。

一方、ソ連崩壊によって東西冷戦時代が終焉し、それまであった異なる価値観は資本主義経済社会の価値観で固まってしまった。

その結果、アメリカのマネーが独裁的に支配するグローバルゼイションの自由競争による市場原理に世界は席巻された。そしてネオコン(新保守主義)が世界を跋扈している。

特に日本は経済的にも軍事的にもアメリカに依存し、また文化もアメリカナイズされ、すべてがアメリカンに組み込まれた。

私は「なぜ、狂ったのか」を書いた。つまり“アメリカン物欲主義”に諸悪の根源がある。

しかし、アメリカの属国である限り残念ながら、ますます“アメリカン物欲”がすべてを凌駕するだろう。

そして今後ますます“心”が蝕まれ、狂うだろう。

余程のことがないかぎり、悲観的にならざるを得ない。

要するに、日本人がすべてにおいて価値観を変える以外に日本は救われないだろう。

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月19日(月曜日) 17時14分55秒

12月はいろんな言い方がある。年の暮れ、年の瀬、師走ともいう。

ついでに12ヶ月の別名を書きとどめて置きたい。

 1 月 睦 月  ムツキ
 2 月 如 月  キサラギ
 3 月 弥 生  ヤヨイ
 4 月 卯 月  ウヅキ
 5 月 皐 月  サツキ
 6 月 水無月  ミナヅキ
 7 月 文 月  フヅキ
 8 月 葉 月  ハヅキ
 9 月 長 月  ナガツキ
10 月 神無月  カンナヅキ
11 月 霜 月  シモツキ
12 月 師 走  シワス

この別名は自然の季節を表し、優雅な花鳥風月の名になっている。

しかし、なぜか12月だけが四季はずれになっている。

そこで、師走の語源について調べてみると諸説ある。

巷では「師走は先生も金の工面のために走り回っている」という珍説がある。

全く根拠がないではない。その昔、“付け”で買う習慣があり、味噌 醤油まで丸ごと付けがきいたらしい。

師走には、その付けを全部支払わなければならない。そのために金の工面が必要だった。だからこのような珍説が出てきたのかも知れない。

もっともらしい説に「師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月」つまり「師馳す(しはす)」が「師走」になったという説がある。

いずれにしても、12月の忙しさは昔も今も変わらないことが「師走」から読み取れる。

ところで、私にとって、今年は現役を離れて初めての年の瀬である。

毎年、年末は人並みにあれこれと多忙だった。

12月を感じさせる多忙感がないのは少しさびしい気もする。

また例年ならあちこちから頂けたカレンダーが今年は貰えなくなった。

そのことも例年のような年の瀬を感じさせない要因の1つではある。

先般(12月2日)の毎日新聞の余録に次のような一文があった。

「師走の声を聞いて新しい暦を買いに走れば、月日の流れの速さにがく然とし、過ぎ去る1年の古暦が妙に気にかかる時節である」

たしかに、加齢とともに月日のたつのが早いように感じる。

早や、今年も年賀状を書く時期になった。

訃報の喪中はがきに再度目を通す。

今年は私の同窓生同級生同期生が3人亡くなった。

十数年前なら同輩の親の喪中が多かった。しかし、最近では本人やその兄弟の訃報がめっきり増えた。

毎年テレビで今年一年を振り返る番組がある。その1つに「今年亡くなった人」というのがある。

つい最近、仰木彬氏が亡くなった。

仰木彬さんは人間の個性を尊重し人間の個性を引き出した日本では数少ない指導者だった。また人望も厚かったらしい。惜しまれる。

70歳だった。私(68)とは2歳違いだ。

生者必滅、会者定離をしみじみと実感させられる年の瀬である。

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年12月15日(木曜日) 14時06分20秒

「安宅の関」(石川県)は

歌舞伎で有名な演目の1つである「勧進帳」に出てくる名場面である。兄頼朝の討伐から逃れる義経一行が安宅の関所で取り調べられる。そこで弁慶は主君の義経を金剛杖で打ち据えて、義経でないことを訴えた。関所役人の富樫は義経であることを見破っていたが、弁慶の主君を思う「惻隠の情」に絆されて関所を通した。

という物語だ。 続きを読む

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