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時事コラムを中心に、社会評論エッセイや名言・格言・諺の解説を掲載

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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月30日(土曜日) 19時42分50秒

前回、アスベスト禍 −これも日本−でアスベスト禍についてかいたが、アスベストでもっとあきれたことが判った。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月18日(月曜日) 14時07分30秒

アスベスト業界が「健康に問題ない」という文書を配布して規制を阻止。

'92年 社会党が法案を提出したが審議もせず自民党などの反対で廃案になった。

これは7月16日毎日新聞のトップ記事である。(私は社会党の支持者ではないが、正しいことは正しい)
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月16日(土曜日) 09時34分12秒

知床が国際連合教育科学文化機関【ユネスコ】の世界自然遺産リストに登録された。

世界遺産リストへの登録は世界の文化・自然の遺産を保護して後世に遺していくことが目的。

世界遺産に登録されると保護が義務付けらる。

文化を保護し、自然を保護することは、我々の子供子孫に素晴らしい宝物を遺すことで、大変貴重なことである。

そう言う意味でこのたび知床が登録されたことは意義が大きく、大変嬉しいことだ。

この件で寺島実郎氏(日本総合研究所理事長)は次のようにコメントした。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月9日(土曜日) 03時19分04秒

イギリスで同時多発テロがあった。死者は50人を超える。負傷者は700人という。

許せない。

テロとはテロリズム(terrorism)の略。

今更ながら、テロリズムを事典で調べてみた。

テロリズムは、心理的威嚇や恐怖心を引き起こすことによって一定の政治的効果をめざすという目的で国家装置や政治集団によって行使される暴力的手段のことをいう

「現代思想を読む事典」 講談社現代新書より

私は思った。これは戦争を定義するとほぼ同じではないか。

イギリスのブレア首相は「人命への敬意がない」とテロを非難した。

私は、テロを肯定するつもりは断じてない。当然怒りを以って非難する。

しかし、私はテロの被害国のアメリカとイギリスに対して言いたい。「イラク戦争こそ、”人命への敬意”を払わなかったのではないか」と。

イラク攻撃の大義名分だった「大量破壊兵器を保有している」ことについてどうだったのか。

結局イラク攻撃の正体は石油利権やその他の利権を目的にしたネオコン達が企てた戦争であったことは明白である。

また死者の数は戦争とテロとでは比べものにならない。

戦争を仕掛けて、大量の人命を奪った国家に、「テロは人命を尊重しない極悪非道の行為だ」と非難する資格はない。

テロについては、文明と文明の衝突、十字軍すなわちキリスト教対イスラム教、ユダヤ教対イスラム教、パレスチナ問題、アラブ対イスラエル、貧困と差別等々の、歴史的、宗教的、民族的な利害が三竦みに絡み合った問題で、解決を困難にしているのである。

テロを根絶するには、テロを起こすこのような要因を解消すること以外に手立てはないのではないか。

地球上には多種多様の文化文明民族宗教が混在し、それぞれの価値観が混在している。

それを力ずくで欧米の価値観を一方的に押し付け、世界を一律に統制しようとするところにそもそもの根本原因があるのだ。

とくに、第二次世界大戦以降、アメリカの価値観の物差しをもって、世界をはかり、その物差しで支配しようとしているところに諸悪の根源があるのではないか。

アメリカはここ半世紀の間で朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東紛争、アフガン戦争、そしてイラク戦争等次々と起こし、アメリカ一国支配を仕掛けた国である。

圧倒的な経済力、軍事力を持つアメリカとそれに追随する西欧、日本等を加えるとアラブ諸国ないし民族は”象とアリ”みたいなものだ。

巨大な力を背景に一方的に価値観を押し付けられるイスラム社会の彼らにとっては、対抗手段は、もはやテロしかない。

暴力的手段という点では戦争もテロを同じであることを強調したい。

暴力的手段といえば、空からは戦闘機・爆撃機・戦闘ヘリコプター、地上では戦車・装甲車、海上から航空母艦,ロケット弾等々破壊力の凄まじい武器を駆使し、かつ惜しみもなく大量の弾薬を消費するアメリカ側の殺戮は、自爆テロ力とは死者の数からして比較にならない。

パレスチナとイスラエルはその縮図である。世界を支配するユダヤ資本の総本山イスラエルと、方や貧困に苦しむパレスチナ。圧倒的な軍事力で次々とパレスチナ地域内に侵入してくるイスラエル軍に対抗する手段は自爆テロ。

これが数十年続いている。戦争は正義でテロは悪というのは片手落ちの論法である。

テロを根絶するには対症療法は効果ない。丁度流感と同じだ。ウィルス菌を撲滅することが決め手だ。ウィルス菌の温床そのもを取り除かなくてはいくらでも発生する。

パレスチナとイスラエル紛争がすべてを象徴しているように、テロの温床を造り続けている。

テロを卑怯とか極悪非道の殺人者と一方的に断罪するのは容易い。しかしそれで問題が解決するのか、根絶できるのか。犠牲になるのは一般市民である。

「テロも戦争も暴力的」殺人である。テロが悪く戦争は正しいとはアメリカ一国主義の勝手な言い草だ。

戦争とテロを区別する分岐点は、国家が行う暴力か、国家でない民族ないし政治集団かの違いである。それだけだ。

国家が行う最大の暴力が戦争だ。国家が行えば正義なのだ。国家以外の集団ないし個人ならば悪になる。

チャップリンは名画「殺人狂時代」「一人殺せば悪人だが、百万人殺せば英雄だ」と見事に皮肉って、戦争の本質を鋭く突いた。

テロというウィルス菌を発生させる温床を作っているのは、実はその被害国であるアメリカやイギリス等の欧米諸国である。

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺のとおり、コンピュータウィルスがばら撒かれると防御ソフト屋が儲かる。テロが頻発すれば軍事産業が儲かる。

とくに日本の反動右翼勢力の自民党右派達は、「だから憲法を改正して軍事国家になるべき」とここぞとばかりに”テロ”を利用するだろう。

日本の勧善懲悪の時代劇をみているようだ。悪を誇大に描き、悪をとことん暴れさせておいて、そこへ正義の味方である強い水戸黄門が悪をやっつけ懲らしめる。観客は拍手喝采、めでたしめでたし。

サミットは水戸黄門御一行様だ。

いずれにしても、逆さメガネを掛けてみてみることだ。そうすれば解決の糸口が見つかり、もつれた糸を解きほぐすことができるのではないか。

われわれ北半球に位置する国の世界地図は「上が北」だが、南半球に位置する国の地図は「上が南」である。

逆さメガネを掛けて見ようではないか。

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月7日(木曜日) 00時00分00秒

先般、兵庫県知事選挙があった。投票率33%、棄権率67%。

兵庫県民約450万人のうち、約300万人が投票にいかなっかたのである。

棄権を是認するつもりはないが、投票をボイコットした人たちの気持ちは分からないわけではない。

というのは、選挙する前から、結果は出ているからだ。自民、民主、公明、社民推薦の候補者に対し、方や日本共産党の候補者である。誰が考えても戦う前に勝負あったである。

とはいえ棄権することは、現状を肯定ないし追認する行為と同じ行為である。

私に言わせれば、オール与党なら政党を作る必要がない。政党なら共産党のように、勝ち負けより、正々堂々と自らの政策を選挙民に訴えて信を問うべきではないか。

オール与党とは県民の利益より、政党の利益のために、野合をし、徒党を組む事である。

そのことは、あの戦前の軍国主義大政翼賛選挙・議会そのものである。辛うじて、日本共産党が立候補者を出して、大政翼賛選挙にならないように闘ったことは、民主主義の光りを残してくれたのである。私はそのことを高く評価したい。

もうひとつは、投票率33%の中身だ。

日本は戦前の軍国主義時代は大政翼賛会をつくり、大政翼賛選挙をし、大政翼賛議会だった。

では今日ではどうか。戦前の大政翼賛選挙と変わりがない。変わっていないというより、大政翼賛選挙そのものだ。

なぜなら、日本共産党以外の全候補者は団体の推薦ないし支持をうけて立候補している。建設業界を筆頭に、日本医師会などなど各業界団体、宗教団体、労働組合、その他各種団体の推薦ないし支持を取り付けている。

その団体は政治献金をしている。だから団体の利益代表なのだ。

団体の利益のためだから、その団体に帰属して碌を食んでいる人は上から押し付けもあってその候補者の選挙活動に協力し、当然投票する。その人の家族は勿論、親戚知人友人にも依頼する。

先般の兵庫県知事選の投票率33%の中身は殆ど団体に帰属している人の票だろう。

つまり、団体翼賛会の団体翼賛選挙なのだ。結果団体翼賛議会なのだ。これはなにも兵庫だけではない。日本の国会も地方議会もすべてそうである。

ではその他の人はどんな人なのか。それはいわゆる無党派と呼ばれている人であろう。

無党派の定義は知らないが、私は団体に帰属していない人は概ね無党派を自称していると思うのだ。

だから棄権する人の殆どが無党派とも言える。無党派の中でもしっかりと主義主張をもち、支持政党をもっている人もいるだろう。

もし支持政党なしの人をを無党派というなら、国民の50%は無党派だろう。

ということなら、無党派が日本の政治の行く末を決めるのではないか。いわゆるキャスティングボートを握っているのは無党派といえる。キャスティングボートを握っている無党派の棄権率が高いことは大変残念である。

国民の50%が無党派なのだから、無党派さえ棄権せずに投票に行けば、彼らの意思次第で結果を大きく変えることが出来るのだ。

ところが、僅か3%の支持率しかない公明党が国政を自在にしているのである。

すなわち我々の国政が公明党に握られているのである。その公明党はイコール創価学会という一宗教団体なのだ。

換言すると、支持率僅か3%の一宗教団体に国政を握られているのだ。

日本人にとって、こんな不幸はない。

国民の50%を占める無党派がキャスティングボートを握っているにも拘わらず、大半が棄権する。だから、創価学会に牛耳られるのだ。

無党派に猛省を促すとともに奮起を期待する。

最後にキャスティングボート(casting vote)の英訳は
賛否同数の時、議長が投ずる決定票」のことである。

無党派諸君、投票に行こうではないか。諸君自身の命と暮らしがかかっているのですぞ!

できれば、無党派党をつくればよいのではないか。これ、面白いなあ。

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月6日(水曜日) 08時58分56秒

郵政民営化法案が僅か5票差で可決された。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月5日(火曜日) 16時04分28秒

事実と真実は違う。

本多勝一氏は私が尊敬する人の一人であるが、彼の著書「事実とは何か」(朝日文庫)の中で、「事実と真実は同じである」と言っている。すなわち、「事実を強調したい時に真実と言う言葉を使っている」に過ぎない、と言っている。

私は事実と真実は違う、と敢えて言うのは、そのほうが分かりやすいからである。もし同じなら事実と真実という言葉の使い分けが混乱し、無用な議論をしなければならない。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月3日(日曜日) 14時58分41秒

「15歳を生んだ家庭」

・信心が足りないが引き金だった創価学会三代の惨劇
・手料理なき食卓で弟に弁当買いをさせたヒトラー
・躾は厳しかったのに罪悪感がないフツーの女高生

これは今日の、大阪地下鉄車内つり広告「週刊新潮」の見出しである。

子供や若者の事件や問題が起きるたびに、世間(マスコミ・評論家・一般市民等々)では、必ず犯人探しをする。

親が悪い、家庭に問題がある、学校が悪い、教員が悪い、日教組が悪い、文部省が悪い、というように、いずれかに責任の所在を限定的にいう。これは責任のなすり合いである。

誰一人として、「社会に病根がある」、「大人社会に原因がある」、とは言わない。

そこで、親・家庭の責任論について述べてみる。

例えば、その親は子供の教育上、問題がなく、かつ正しい人格をもった親であり、家庭だとしよう。

その子供は学校に行く。そこには先生達や友達がいる。また子供はテレビを見る。本も読む。遊びもする。

子供には親や家庭とは違う環境がある。また親以外の外部からの情報網をもっている。すなわち、子供にとっての環境は親・家庭だけではない。親・家庭以外の子供の世界があり、環境がある。そしてその環境の影響をうける。

もし親・家庭外の環境の影響を排除したいのなら、子供を家庭から一歩も外に出すわけにはいかないだろう。いわゆる家庭内純粋培養をするしかない。このようなことができるわけがない。むしろその子の人格形成過程で問題があるだろう。

また親・家庭以外の環境・情報の影響は、住居環境もその一つである。

都会の人工化されたコンクリートジャングルに住んでいる子供と、自然がそのまま残っている田舎に住んでいる子供とを比較すると、子供に与える環境には大きな差がある。

毎日の生活環境を想像してみよう。

田舎は小川があり、田んぼがあり、畦道あり、でこぼこあり、そこら中にいろんな植物や作物があり、生物がおり、四季折々変化する。小鳥の鳴き声などを聞き、自然の匂いを嗅ぐ。自然をわたる風の中を歩く。自然の空気を一杯吸い、自然を五感で満喫しながら生きている。

他方、都会の子供はどうだろう。コンクリートで固められた道路。車道をフェンスで仕切られ、その横を車が激しく行交い、通路は狭く人の往来が多い。街の看板広告ショウウィンドから強烈な色彩の刺激を受ける。車の騒音、雑踏の雑音、排気ガスを思いっきり浴びせられ、信号機の指示通りに歩き、鉄の陸橋階段を上り下りし、電車の踏み切りに待たされる。うかうか子供らしく走りまくる事も出来ない。また身近にコンビニあり、ゲームセンターあり、本屋有り、多種多様な商品・サービスが軒並みにある。中には刺激的な写真が否応なしに目に入る。

この違いをどう考えるのか。田舎の子供と都会の子供の成長過程において、この環境の影響の違いをどう考えているのか。教育上どちらが良いかは言わずとも知れたことだ。

いま、親・家庭を云々しているが、親の問題についていえば、父親は立派な人であるが、職業上、朝早くから家を出て働き、夜遅く帰る。ローンでマンションを買ったがその支払いを助けるために母親はパートに出ている。母も立派な人である。

本来、家庭は、夕食ぐらいは全員が揃って食べ、一家団欒の一時が必要不可欠である。生活をする為には仕事をしなければならない。しかし日本は世界で一番の長時間労働の国である。一家が揃って夕食ができない国は日本だけである。日本のサラリーマンは企業に労働力を売って対価としての賃金を得ているだけではない。魂まで売ってしまっている。だから心身ともに一種の奴隷状態にある。

子供の成長過程において、親・家族のコミュニケーションが大切であるが、それを希薄にしているのが、日本社会である。

親は子供のためにどうすべきか、何が望ましいかは、分かっている。親が分かっていながらできない社会環境・社会システムが日本にはある。

週刊新潮が取り上げた「15歳を生んだ家庭」が、もしロビンソン・クルーソーのように絶海の無人島で暮らしていたと仮定すれば、そのような悲劇が起きただろうか。答えは否である。むしろ家族間のコミュニケーションが密になり、協力関係が強化され、結束は強くなるだろう。

子供は純白ゆえに、自然や社会環境の影響を強くうける。とくに家庭環境が重要である。しかし子供も家庭も社会環境下にある。教育環境に限定していうなら、学校、教員、日教組、文部省という社会システムの中にある。

その教育環境は自然や政治・経済・文化・文明等の社会システムの中におかれている。
すなわち、1人の子供、1人の親、一つの家庭が、どんなにもがいても、どうしようもない巨大なヘドロの渦の中にあるのである。

換言すると、“個”は全体との関連の中での存在であって、全体と無関係で“個”は存在し得ない。だから問題をとらえる場合、または責任の所在を考える時、全体を考えないで“個“ないし“個別”を取り上げることはナンセンスの極みというほかないのである。―木を見て森を見ず―

問題を考える場合、全体社会の問題から掘り起こし、その問題が個別にどのような影響を与えているのかを考える事が問題解決の方法である。

子供は大人社会の鏡である。子供の問題は大人社会に問題があるから起こるのだ。

大人社会がこんなにも悪いのだから、子供の問題、事件は無くならない。このままでは増えつづけるだろう。

社会を変えるということは、政治を変えることである。政治を変えるのは政治家ではない。政治を変えるのは国民である。

大変残念ではあるが、このような子供の事件・問題行動は増え続けるだろう。なぜなら日本の政治は衆愚政治だから、今後も変わることはないからである。

テレビなどのマスコミは子供の問題が起きると、親や家庭に焦点を当てる。例えば週刊新潮の「15歳を生んだ家庭」のように。私なら「15歳を生んだ社会」と書く。

そもそも、人は他人のゴシップが大好きである。ゴシップ記事を売るのがマスコミである。

あの少年・少女の事件を、他人の家庭を覗き込むような興味本位で取り上げる、マスコミの姿勢が恐い。

人は現象を見て、本質を見ない。これだから、多事多難な問題がいつまでたっても解決、改善、改革できないのだ。

著名な教育学者、梅根 悟氏(元東京教育大学名誉教授、和光大学学長)は著書 『ルソー「エミール」入門』 (明治図書)の中で次のように記述している。

数ある思想家の中で、どうしてルソーはこのように特に教育に関心を持ち、教育研究をもって、社会公共の利益に役立つ研究のうち、最大、最高のものであると考えたのでしょうか。
−中略−民主政治は、みんなが一致しない時には多数の意志を以ってみんなの意志と見なすのが常道であり、ここに多数決という制度が生まれるわけですが、多数が賛成した意思が果たして常に正しい意志と言えるのか、というのです。そうは言えないという実例は今日の日本にも山ほどあると言っていいでしょう。つまり全体意志が必ずしも正しい意志とは言えないのです。これはみんなが真実と思い込んでいることが必ずしも真理とは言えないのと同じです。人類は長い間、みんな太陽や星が地球をまわっていると思い込んでいたが、それが正しくはなかったのです。コペルニクスはただ1人、別の考えをもっていたのでしょうが、そのただ一人の考えが正しかったのです。それが真理だったのです。
そのような真理に相当する正しい意志をルソーは普遍意志と呼んだのです。だから全体意志は必ずしも普遍意志ではない、ということになるのです。―中略―つまり民主政治のもとでの主権者である国民の一人一人が、普遍意志をみずからの意志とし、真理を見抜くことのできる人になるように教育されるよりほかはない、民主政治が真にすべての人民のための政治になるためには、みんながそのような人として教育されるよりほかはないということになります。―中略―ルソーの著作が出てからのちには、多くの人がルソーと同じ立場で教育の重要性を説くようになりました。たとえばアメリカのマヂソンや、ジェファソンなどはいずれも、民衆の知性を啓発し教育しないで行われる民主政治がいわゆる衆愚政治に陥ると力説して、民衆教育の重要性を強調しました。しかし民主政治の根本は人民の教育にあること、人民を理性的な判断の可能な人間にまで教育することにあることを、ルソーほど明快な理論で説いた人は、彼以前にはありませんでした。

フランス革命に大きな影響を与えた、フランスの啓蒙思想家、ジャン・ジャック・ルソーは約300年前に「真の民主主義と、それを実際のものにするためには教育が欠かせない」と「民約論」「エミール」で力説した。

ルソーのこの啓蒙は今日でも新鮮、というより今日の日本にとって、今こそ傾聴に値する考えである、と私は強く思う。

私は一貫して「多数意見必ずしも正しくない、むしろ少数意見にこそ真実がある」ことを繰り返してきた。天動説・地動説がそれを如実に証明している。

また民主主義制度は多数決だが、同時に民主主義は衆愚政治にもなる。多数の大衆が愚民だから衆愚政治になる。

ルソーはそのことを300年前に警告するとともに、だからこそ、大衆の教育が重要だと強調したのだ。

日本人の教育観には、明るい未来の国家をつくるために次代を担う子供を育てようという観点はない。

日本人は自分の子供に何を望んで教育しているのか。それは少しでも良い学校に入れ、少しでも良い就職ができるように、学校へ行かせる。これしか考えていない。

文部省は財界が望む、財界が使いやすい便利な人材の育成要求に応え,金太郎飴を大量生産したのだ。

日本という国なびに日本人は「何が正しいのか、何が真理か、を探求する心や考え方を教育の基本に置いていない」のだ。むしろそう言うものは、為政者にとっては邪魔になるのである。

戦後、このような教育方針を押し進めてきた結果、現在のような悲惨な社会になってしまったのである。

日本の財政問題、教育問題、少子化問題、青少年問題、老人問題、環境問題、医療問題、犯罪多発問題、企業組織犯罪多発問題、外交問題等々、全ては政治の問題である。

政治が変われば全てが変わる。しかし、60年間一向に変わらない。悲観的だが今後も変わらないだろう。

コペルニクスが地動説を唱えたが、大衆の殆どは彼の説に耳もかさず、逆に“悪“と決め付けたのだ。

今日の日本にもコペルニクスのように真実と正義を訴え、奮闘し続ける極く少ない人たちがいる。だが、大衆はその人たちの意見に耳を傾けることをせず、逆に“悪”と決め付けている。

これでは、コペルニクスが地動説を唱えた約560年前のヨーロッパと同じではないか。

コペルニクスの地動説提唱後、ガリレオやケプラー等の科学者がこの説を支持してローマ教会から迫害をうけた。大衆もローマ教会に追随して彼らに反感をもった。

その約200年後、ルソーはこの地動説事件を教訓にして、教育の重要性を「民約論」、「エミール」を書いたのである。

すなわち、ルソーは民約論で『コペルニクスのような真理に相当する正しい意志を「普遍意志」と呼び、政治はその「普遍意志」によって行われなければならない。
それを可能にするためには、一人一人が真理を見抜くことのできる人に教育されるよりほかない。そして民主政治が、真にすべての人のための政治になるためには、みんながそのような人として教育されるよりはかない』(要約)といっている。(梅根 悟)

日本の多数決政治が衆愚政治になっているのは、日本の教育が「真理を見抜く力を育てる」教育になっていないからである。

投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年7月1日(金曜日) 12時54分28秒

先日、悪質なリフォーム業者が逮捕された。その前はオレオレ詐欺・振込め詐欺が横行した。また霊感商法や宗教団体の悪行や美味い投資話の詐欺が後を絶たない。

手口も巧妙でつぎつぎと新しい手法を編み出し、悪質な犯罪が日常化して、被害者は減るどころか増え続けている。今の政治状況と一緒だ。
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