投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月30日(木曜日) 11時49分41秒
今日から「教育シリーズ」を書くことにした。私にとって余りにも無謀な挑戦である。ある種の恐怖心を抱いている。
しかし、私は教育の専門家でもないし、社会的に名誉も地位もない、タダのその辺のお爺だから、書くこと、書いたことに権威もクソもない。お爺の寝言かうわ言である。だからそう神経質にならずともよい、と気軽に考え直した。
私は「財を遺すは下、業を遺すは中、人を遺すは上」を座右の銘にして生きてきた。
人を遺すといっても、ではどうすればよいのか、難題にブチあたった。そしてやっと自分なりに答えを出した。
それは「自分自身が歴史に責任をもった生き方をすること」を心得た。
それ以降、自分の行為が、果たして歴史的に責任をもった行為かどうか、を座標軸にして奮闘した。
したがって、私は企業の論理、組織の論理に埋没することはなかった。また私の辞書には処世術とか、社内遊泳術という言葉はなかった。
昔、銀行勤務時代に、ある先輩が私にこんなことをいった。「君のお父さんに一度あってみたい」というのだ。私が何故か?と聞くと、先輩は「ひょっとして、君のお父さんはヨーロッパで仕事をしていた人ではないか」「君を見てると、ことごとくヨーロッパ的だから」と言うのだ。いずれにしても私は日本人の意識構造とは異色の意識構造だった。だから企業組織において異端児だった。
では「行為」とはなんぞや。元最高裁長官の団藤重光氏は「行為とは人格の主体的現実化たる身体の動静」と定義づけている。
人格とは、その人の性格・思想である。私のような性格・思想は日本人社会においてメジャーではない。マイナーに属する。
したがって、私の教育論など、現代の日本人が理解してくれるとは到底思っていない。
幸いにして、私は教職者ではない。また社会的影響力をもつ存在ではない。さしずめ影響を与えるとしたら、息子と娘の二人の子供だけだろう。
そして二人の子供が私の考え方に異議を唱えたら、そのときは私を”反面教師”として見てくれればよい。(これ甘えかなあ・・)そんな気軽な気持ちで書くことにした。
いま、”反面教師”といったが、私の二人の子供は、もうすでに成人している。だから、もうすでに批判力が備わっている。
今もし、私の子供が幼児だったら、”反面教師”なんてことは、とんでもないことではあるが。
前置きはさておき、本論に入る。
私は「子供は社会のなかで、環境の影響を大きく受けて育つ」と考えている。そして私の教育論のバイブルはルソーの「エミール」であることを最初に断っておきたい。
まず、環境とは自然環境と社会環境の両方のことだ。そして社会環境とは人間である。とくに、幼児までは親がその子の人格形成に決定的な影響を与える。すなわち親の人格そのものが直接大きな影響を与える。
幼児は身近な人、身近な自然の中で成長していく。幼児は親の一挙手一動作、言動をことごとくよく見ている。そして、なんでもかんでも真似をして学習するのだ。
私は長男がまだ2,3歳のころ「親業」(トマス・ゴードン博士、本件については多くの著書やサイトがあるので参照されたい)という本を読んだことがある。その本を読んでいるうちに、心臓が張り裂けるような状態になったことを憶えている。
そして自分は親になったことを後悔した。親になることは、また親であることがこんなにも重大なことか。子供に対する責任とはこんなにも重大なことか。そして「親業」がいっているようなことは、自分には到底できないと思った。聖人君子でも難しいことを、親は求められている。
結局、私はその本を伏せてしまった。ただし、「子供の未来に親は重大かつ決定的な影響を及ぼす」ということだけは肝に銘じた。
いずれにしても、子供は人と人との間で育つ。(拙文社会評論 狼少女 カマラとアマラ −言葉と人間−をご参照ください)
そして親の人格、教師その他の人格にふれあいながら、成長していくのである。
要するに、子供は自分以外の人の行為を見て育つのである。
そこで、もう一度、繰り返し述べる。
「行為とは人格の主体的現実化たる身体の動静」
子供たちは大人の行為をよく見てますぞ。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月28日(火曜日) 14時29分23秒
天皇・皇后両陛下が慰霊の旅に出立さられた。戦後60年の6月27日、サイパンに到着。本日(6月28日)バンザイクリフをご訪問。
日本軍43,000人、日本民間人12,000人、原住民500人、米軍5,000人、計60,500人が死んだ。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月25日(土曜日) 22時10分48秒
政府税制調査会会長の石 弘光は大増税をやると言い出した。
只でさえ、国民生活は苦しいのに、まだ税金を増やし、国民から金を吸い取るという。
石弘光は財政学の専門家という。政府の犬、御用学者の見本みたいな最低の人間。
財政といえば、企業でいえば財務だ。財務といえば資金調達と運用だ。
学者なら、いかに支出を減らし、収入を増やすか学者らしく考えろ。
単純に、足りなければ国民から税金をとれ、というのであれば、学者でなくても、幼稚園の子供でも考える事。
そもそも、政府は何とか調査会、何とか審議会、なんとか会に、先ず意見を言わす。
何とか会は学識経験者、各界の代表といって、公平公正を装っているが、実は自分達の意見に適合する人物ばかりを集めている。誤魔化しもいいところだ。
日本の例え話をするとこんな話になる。
ドラ息子がいる。その親はその息子を甘やかし続けている。そのドラ息子は悪友と遊びまくり、親の金を使いまくる。
金がなくなると上手な理由をつけて親にせびる。親はドラ息子の金の使い方や行動には監督監視をしないから、子供の説明を鵜呑みにして、金を出してやる。
またそのドラ息子の悪友のことも息子の説明を鵜呑みにしている。
親もだんだんと金がなくなり、苦しくなってきた。それでも一生懸命に働いて相変わらず金を出す。
親が苦しいといえば、こんどは「自分も苦しい、自分が困ってもいいのか」という始末。
このドラ息子が政府自民党、悪友が官僚、馬鹿な親が国民。国民は馬鹿だから、いつになっても目が覚めないだろう。
以前、外国の特派員や外国記者たちが「日本人がわからない。もしこれが欧米や外国であれば大問題となり、暴動がおきるようなことが多々あるのに、日本人はみんな黙って、なんの行動も起こさない。理解できない」と皆が異口同音にあきれていた。
もし、ここが外国であれば、石弘光のようなヤツは、よってたかって殴り殺されるだろう。あるいは石弘光の自宅に押しかけ投石されたり、火をつけられるだろう。そんな過激な暴動行為は良くないが、いずれにしても国民は大々的に抗議行動を起こすことは間違いない。
石はあの記者会見で「サラリーマンに頑張ってもらうしかない」と平然と言い放ち、かつ人を見下げ、人を食ったあの態度と面を見ていると殴りたくなる。
肝腎なことは、増税する前に税金の使い道、税金の無駄遣いを洗いざらい検証することをまずやるべきである。”税制”というのは”とる”ことだけを考えるところか。税制というなら、入と出の両方を勘案するところではないのか。
まあ、しかし、国民が選んだ政府だから・・・。つまるところ、一番の根本原因を作っている国民だから我慢しなさい。(わしはあんなヤツらに投票した事はないが)
政治が何をしようと、どんな政治をしようと、戦後60年間自民党政治は一度も変わったことがない。それも世界では珍しい。
民主主義の発達した国では必ず政権交代がある。与党と野党が入れ替わる。そして、また、だめなら交代する。
日本はそれが一度もない。不思議な国だ。
いずれ選挙があるだろう。結果やる前からわかっている。微塵も変わらないだろう。
選挙に熱心なのは団体。建設業界、日本医師会などの業界、宗教団体、労働組合等々の団体翼賛選挙である。団体に所属しない、いわゆる無党派と言われる人たちは大半が棄権する。
棄権するということは、「現状肯定」「現状維持」「現状黙認」行為である。
どうせ選挙に行っても「何も良くならない」と、選挙に行く前に決め込んでしまっている。本当にそうか。いや違う。「よく見て、よく聞いて、よく主張せよ」
もう一度いうが、棄権することは、結果的に与党に投票したことになる。すなわち与党に投票する行為になる。
結局は自分のことですよ。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月23日(木曜日) 01時44分15秒
武士は食わねど高楊枝
VS
腹が減っては戦はできぬ
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月21日(火曜日) 00時48分43秒
3月20日に私は社会評論集エッセイ 関東大震災 −放送と公共性−について書いた。
公共性とは何か、特に放送とジャーナリズムに力点をおいて書いた.
今回は私鉄の公共性について述べたい。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月20日(月曜日) 12時14分52秒
次の記事があった。心が洗われる話だ。
「さよなら」コリーナ審判…定年ルール守り引退へ
定年で審判生活に別れを告げるコリーナ氏。独特の風ぼうと厳格な判定で世界的な人気者となった=AP
スキンヘッドにギョロ目という独特の風ぼうで世界的に知られ、日本のCMにも出演したサッカーのピエルルイジ・コリーナ審判(45)(イタリア)が18日、最後の試合の笛を吹く。
イタリア審判協会の規定で、45歳が定年とされているためで、出身地のボローニャで行われるセリエA残留をかけたプレーオフのボローニャ―パルマ戦が引退試合となる。
1977年に審判としてデビュー。95年には国際サッカー連盟(FIFA)の国際審判員となった。2002年のワールドカップ(W杯)決勝など、数々の大舞台で主審を任された。98年から6年連続で世界最優秀審判にも選ばれている。
対戦チームをビデオで研究し、戦術や各選手の特徴などをすべてつかんでから試合に臨む。それをもとに、次のプレーを予測しながら、1メートル88の長身でピッチ内を駆け回って、的確な位置で判定を下す。
母国語のほか、英仏スペインの計4か国語を操り、選手と積極的にコミュニケーションを交わして、トラブルを防ぐ。「試合にかかわるすべての人と良好な関係を築けば、試合は良くなる」というのが信条だ。時々のぞく笑顔も印象的で、監督や選手の信頼も厚い。
実績から、定年延長が認められるとの見通しもあるが、本人は「ルールを守るのが審判」と意志を固めているという。引退後は、本業のファイナンシャルアドバイザーに専念するようだ。(パリ・若水浩)
(2005年6月18日13時58分 読売新聞)
「ルールを守るのが審判」といって定年ルールの特例(延長)を断ったそうだ。
本当にすがすがしい。
これに良く似た実際の話が日本にもあった。
これは当時の新聞で大きく報道された「悲しい死」の実話である。
終戦直後、食糧はもとより、あらゆる物資が統制令下にあって、すべてが配給だった。
食糧の配給といっても、ごくわずかで、配給だけでは餓死してしまう。だから殆どの国民はヤミルートで手にいれて飢えを凌いでいた。
ヤミはご法度。すなわち法律を犯す行為だ。
私たち家族もヤミで手にいれた食糧で、家族7人が、辛うじて生き延びて来た。
そんな敗戦の廃墟と食糧難、物不足の社会状況の最中、衝撃的な新聞記事がでた。ある「裁判官が餓死した」という報道記事だった。(昭和22年)10月、裁判官山口良忠(東京地裁判事)がヤミ物資を食べることを潔しとせず、栄養失調で亡くなったのだ。(享年32歳)
その裁判官は「法の番人である私は、法を犯すことは絶対にできない」といって死んでいったのである。
この話に心が痛んだ。
当時、私は小学生の3年だった。その日の食卓は、芋を乾燥させて挽いた粉をねって、それを蒸してつくった芋パンだった。
その芋粉は当然、ヤミで買ってきたものだ。子供ながらに「これもヤミだ」ということは知っている。
その食卓で父はこんな話をしてくれた。
「この裁判官は本当に立派な人だ。しかし、お父さんは、その裁判官のようなことはできない。おまえ達家族をどうしても生きていかせたい。たとえそれがヤミであっても、それを買い、食べさせ、生きていく事こそ正義だ、とお父さんは思う」
私は「どちらが正しい生き方か」を論じているのではない。どちらも正しいと思う。
父は、非常に正義感の強い人だった。かつ弱者の立場にたって生きた人だった。そして社会思想家を志し、社会運動家の端くれだった。そして不正義に対しては敢然と闘った人だった。
いずれにしても、あの裁判官のこと、父のことは終生忘れる事はできない。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月19日(日曜日) 12時53分10秒
マイケル・ジャクソンの評決が出た。すべての罪状が無罪となった。
米国では裁判の陪審員制度が定着している。
米国の陪審員による評決は多数決ではない。全員一致である。この全員一致は正しい方法だと私は思う。
「疑わしきは被告人の有利に、すなわち疑わしきは罰せず」が大原則である。一人でも疑問や反対意見をもっているなら、それは疑念が残っていることになる。従って全員一致は法の精神に適っている。
(私はマイケル・ジャクソンの評決が正しいといっているのではない。誤解のないように。私は私なりの感想はある。しかし、そんなことを三文記事のように言うつもりはない。若・貴騒動もしかり。他人の喧嘩やゴシップに興味は毛頭ない。ただし、日本相撲協会には問題意識をもっている)
私は今年の1月18日に「日は昇り、日は沈むー何が正しいかー」というテーマの中で米国の名画「十二人の怒れる男」について言及した。
(今日のあるテレビが日本の裁判員制度導入に関して、この映画を取り上げていた)
この映画について、再度要約すると、”殺人容疑者の少年について、12人の陪審員がどのように評決をしたのか、その経過を映画にしたもの”だ。
初回の評決では11対1で少年は有罪だったが、回を重ねた結果、12対0で少年は無罪になったのである。
全員一致の評決方法は法の精神に則るとともに、少数意見を尊重するという民主主義の精神にも則している。
少数意見にこそ真理があり、真実があることは歴史上多く証明されているからだ。
ところで、日本でも5年後には裁判員制度が実施される。アンケートの結果は70%が参加したくない、といってる。
ここに日本人の意識構造が如実に表れている。私は一貫して日本人の意識構造を批判し警鐘を鳴らし続けている。
なぜなら現代の日本にはいろいろと問題が山積し、ある種の崩壊的危機に瀕している。その根本要因が”日本人自身の意識構造にある”からだ。
すなわち、日本人は自我が確立していないからだ。
自我の不確立とは
1.自分の意見・主義を持たない、仮に、もっていても主張しない。すなわち主体性(アイデンティティ)がない。
2.何事も曖昧にしてしまう。結論を出さず問題を先送りにして、その場凌ぎ、解決せず、うやむやにしてしまう。
3.いつも自分に責任が及ばないことをまず第一に考え、事に関わることから逃げ、自分は傍観者になろうとして参加しない。
4.しかし、何らかのは判断を求められた時は、人の顔色を窺い、人の動勢をみながら、大勢に便乗する。
5.また、何らかの意見を求められたら、新聞・テレビ等のマスコミの言葉を借りていう。また誰々が言っていたという。「私はこう思う」とは言わないし、言えない。すべて自前でなく他人の借り物である。
6.真の民主主義がなく、いまだ封建主義が根強く、縦社会になっている。従って”上””下”意識が過剰で、かつ”上”には逆らえないという意識から脱却できない。
7.日本人の意識の最大の問題は、なんでも「仕方がない」の一言で済ましてしまうことだ。「仕方がない」で済ましてしまうことは、結局自分に降りかかってくるという意識がないからだ。
以上7点を上げたが、一つ一つが相互に関連して有機的に結びついた構造が日本人の意識だ。
だから、今回の裁判員制度に対しても否定的ないし消極的なのだ。
「黒白をつけないところが日本人の良さだ」という話をよく聞く。
しかし、それは人間関係の問題であろう。人間の心理や感情は複雑怪奇で第三者が立ち入ることができない内面的な精神の領域だから、人が黒白をつけられない、というのは理解できる。
ところが、政治や行政や法律問題はそれとは違う。はっきりと黒白をつけるべき事柄なのである。
人間関係と政治・行政・法律とは全く異なる次元の問題だ。なのに、その区別さえできない。味噌も糞も一緒とはこのことである。
また、「人が人を裁くということは至難なこと」という意見がある。私はこの意見に同感だ。しかし、だから「人に任せる」というのであれば、それには賛成できない。
裁判官は、その人が職業として自ら望んだ道だから、その人に任せておけばいい、というのだろう。
この「任せておけばよい」という意識そのものが無責任であり、他人事になってしまうのだ。それが危険であり、問題なのだ。主権在民を自ら放棄するのも同然である。
この意識は裁判だけにとどまらず、政治、行政、教育等ありとあらゆることに対して見られる。だから彼ら権力者は自分達の利益だけしか考えず、市民国民をないがしろにするのだ。
私は裁判員制度を歓迎する。従来の裁判は市民・消費者・納税者・国民とは遠い存在であった。そして日本人は裁判官を別格扱いにしてきた。そのことが彼らの特権階級意識を助長した。そして彼らは国民を上から見下ろし、法律上、国民をどう扱うのかを考えている職人のように思う。
本来、法律は人間のためにある。ところが、一旦法律が作られてしまうと人間が法律の下におかれるという奇妙なことになっている。
法は人間のために、人間が作ったものであリ、法を運用するのも、人間である。
しかし、考えてみれば、われわれ一般国民市民は法をつくること、法を執行すること、法によって判断すること、すなわち法の運用(立法・行政・司法)に直接携わっておらず、またその権限はない。
国民が幸福になるか否かは法の運用次第である。運用に直接携わらず権限もないから、「だから任せておく」のでは権力者次第ということになる。
任せるが、しかしわれわれ国民市民は、それらを常日頃から彼らのする事に関心をもち、監視をし、彼らの良否、正否、当否をよく見極め、それを正す意思表示と行動をとることが重要なのである。その最たるものが選挙であり、投票行動である。
もう一つ大事なことは、「権利は、それを守る努力をしねければ権利はないのと同じで、どんどん侵害される」のである。国の最高法規の憲法には国民の権利について明文化されている。しかし、法律の条文に書いてあるからといっても、その権利を保証してくれるものではない。だれも守ってはくれない。
権利はそれを主張し、守る努力をし、守る闘いをして、はじめて勝ち取ることができる。そうしないと権利を侵害され、放棄してしまうのである。だから「任せておく」という意識は危険だと言っているのである。
そういう観点から、裁判員制度は我々が権利意識や市民意識や市民感情を法廷に持ち込み、人間性を取り戻す一定の効果が期待できるものと考えている。
いずれにしても、われわれ市民、国民は観客になってはいけない。日本人はいつも何事も観客なのだ。
観客になるのは、スポーツ・映画・演劇・演奏だけでよい。政治や行政や法律問題まで観客になってはいけないのだ。
もっといえば、観客にすらならず、政治や行政や法律問題に全く関心をもたない日本人が多い。だからこんなめちゃくちゃな国になってしまったのだ。
禅問答にこんなのがある。
問 「川の向こう岸で喧嘩をしている。君はどうする?」
答 「とにかく、川の向こうまで行って、喧嘩のなかに入る」
そうすれば、「どうしたらよいか」が自ずとわかる。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月17日(金曜日) 11時40分41秒
「2008年 IMF占領」 ペーパーバックス(光文社)
−財政危機を日本で最初に訴えたエコノミストが書き下ろす「最終警告」−
これは先月発売された著書の題名である。
著者は森木亮 [Akira Moriki]
1935年東京生まれ。早稲田大学卒業後、三菱信託銀行に入行、調査部に勤務のさい、故、高橋亀吉博士に師事。1978年に同行を退職、経済評論家として独立。一貫して日本の国家財政に警告を発するかたわら、経済の未来予測を的中させてきた。現在、「経済工学研究所」を主宰し、白乗ス大学で教鞭をとる。主な著書に
「財政崩壊」(産業能率大学出版部)
日本の財政革命(日本ビジネス社)
金融経済近未来(時潮社)
日本経済の不快指数(学陽書房)
2005年日本経済の大逆襲(日新報道)
など多数。
先般(5月18日)森木先生が主宰される経済工学研究所の創立25周年記念ならびに、この著書の出版祝賀会があった。森木先生とは過去何度かお会いしていた。私はそんな関係で案内状をいただき出席した。
総勢500人ほどのパーティだったが、出席者の面々を見て驚いた。見る人、見る人、日本人なら知らない人はいない著名人がぞろぞろ。政界、官界、財界、芸能界その他大物ばかり。
日本銀行福井総裁をはじめ、プロ野球小池パ会長、堺屋太一、はたまた社民党委員長の福島瑞穂さんまで、先生の親交の幅の広さにまずびっくりした。
司会者が「どうぞ、みなさんご歓談を」といわれても、有名人ばかりで私など誰一人として会ったこともない人たちだ。気安くものが言えるはずもない。
まあ、それはともかくとして、この本の内容について書きたい。
結論からいえば、必読書である。財政史家として日本の財政破綻(750兆円の借金大国)にいたる経過を歴史的にわかり易く解きほぐしておられる。
私は2月5日に「教科書嫌い −歴史認識−」というテーマで、「日本人は歴史的にものを見たり、考えることが不得手だ」と書き、さらに「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とビスマルクの言葉を引用した。
森木先生も同様にそのことを書いておられる。
また、3月14日のブログに私は「世の中提案書シリーズ」で「官公庁、独立行政法人、公社等」に会計基準に即した財務諸表(貸借対照表、損益計算書等)を作成させ、かつ、会計検査院はそれに基づき、監査を行うことにする」を書いた。
同様のことを森木先生も書いておられるので下記にご紹介する。
日本の官僚たちは複式簿記を学んでいない(P146-147)
アカウンタビリティ(説明責任)が要請されている今日、公会計が単式か複式かで、日本国が潰れるのである。複式簿記には自動検証機能があり、近代社会科学における最大の発見である。
複式簿記があって初めて、原価計算が正確にでき、利潤も正確に計算できるのである。常識的な国家運営者にとって必要かつ十分なる条件は、複式簿記の存在をおいてほかにない。
マックス・ウェーバーは形式合理性をもつ典型的な例として、次の4つをあげている。
・物理学に代表される近代科学
・マーケット・メカニズム(市場原理)
・罪刑法定主義に基づく近代刑法
・複式簿記
つまり、複式簿記こそ、国家運営の鍵である。しかるに、日本にこれがないということは、日本には近代がない。近代をかたちづくった基礎学、近代科学(学問)もないということになる。なぜなら、近代とは、形式合理性とイコールだからである。
国債や地方債を発行して公共事業をやればなんとかなると浮かれていた時代は終わった。いまわれわれが直面しているのは、気がつけば国も自治体も破産していたという大崩壊前夜である。
読者には信じ難いかもしれないが、公会計の中心である財務官僚には法学部出身が多く、複式簿記を学んでいない者が多い。彼らは、複式簿記は商業学校の必須科目で、大学の法学部にはまったく関係ないと錯覚して官僚になる。
彼らの数学アレルギーに続いて簿記アレルギーは、ひどすぎる。
アメリカのミシガン大学などでは、博士号をとるために簿記は必須である。複式簿記の原理とは、資産・負債の増減を交通整理することにある。国際収支表だって複式簿記なのに、日本の公会計だけが単式簿記では、日本は近代国家とは言えない。
私はこの著書を読んで思った。これはまさに歴史書であると。歴史書は政治・文化等々あらゆる視角から捉えるが、この本は財政面から捉えている。すなわち、お金の動きの歴史である。
お金は家庭、会社、市町村、都道府県、国家すべての根幹問題である。家庭では家計があり、会社では経理財務がある。公(市町村都道府県国)では財政と呼ぶ。
お金は最も大切なものにも拘わらず、公がここまでわれわれのお金をでたらめに扱い、国家破産にまで追い込んだ歴史が語られている。
森木先生は早くから日本の財政運営について、再三再四警鐘を鳴らし続けてこられた数少ないエコノミストであり、学者である。
あらためて、先生に敬意を表するとともに、みなさんには是非本書をお薦めしたい。
なお、この光文社ペーパーブックスは新しい試みをしています。
まず、再生紙を使用しています。またジャケットも装着していません。
そして、四重表記をしています。これまでは大体三重表記、すなわち「ひらがな、カタカナ、漢字」でしたが、それに加えて英語(その他外国語)を表記しています。
例えば
空洞化 hollowing aut
集団的自衛権 right of collective defense
国家破産 bankruptcy of nation
という風に。英訳・和訳の辞書としても活用できそうです。
地球資源節約のために体裁は従来より、簡素になっています。書籍は外観より内容です。感心しました。
投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月16日(木曜日) 02時10分37秒
私が運転免許をとったのは52歳のときだった。私の妻の両親を我が家に引き取ったときだった。その両親は,ともに病身で通院の送り迎えが、妻だけでは大変だった。そんな事情で私も車の免許をとることにした。
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投稿者: 原野辰三 投稿日時: 2005年6月15日(水曜日) 10時26分18秒
靖国神社は軍国主義者のシンボルである。
靖国神社は、あの暗い悲惨な戦争時代に生きていた人にとっては「命をささげて祀られる」場所であったことは誰一人として否定できないだろう。
小泉首相が「二度と再び戦争をしないために、戦没者の英霊にお参りするのだ」といっている。
もし、それが本音であるならば、戦没者慰霊碑がある。そこにお参りすれば十分ではないか。
戦没者慰霊碑には戦争で犠牲になった多くの国民が祀られている。
それを敢えて、裁判所で違反だといわれながら、また戦争犯罪人であるA級戦犯が祀られているにもかかわらず靖国参拝にこだわるのか。
答えは明らかに軍国日本の復活にほかならない。
そこで、靖国神社が発行している、家族向けのパンフレットの一部を紹介します。
「戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです」。
さらに「戦後、日本とたたかった連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に“戦争犯罪人”という、ぬれぎぬを着せられ、無残にも生命をたたれた1068人の方々・・靖国神社ではこれらの方々を『昭和殉難者』としてお呼びしていますが、すべて神さまとしてお祀りしています」。
さらに靖国神社内にある資料館「遊就館」を紹介したパンフレットではこう書いています。
「近代国家成立のため、わが国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係ない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました」
要するに「あの侵略戦争は自由と平等のためで正しかったのだ」と美化しているのです。
だから、小泉首相や自民党議員なびに民主党の一部議員が靖国参拝をするのです。
また、靖国神社参拝に最も熱心なのが右翼団体です。あの戦闘服を纏い君が代や軍艦マーチを耳が痛くなるほどボリュームをあげ、跋扈する光景をみます。そして正月元旦はこぞって団体で靖国詣でをします。(あの相当な金は一体どこから出ているのでしょうね)
昔から国会議員とヤクザ・右翼の黒い関係がささやかれています。かつてロッキード事件でフィクサーとして証人喚問された児玉譽士夫・小佐野賢治や笹川良一の3名は政界の黒幕として有名です。
彼らがいう「日本の自存自衛のためにアメリカ等の連合国とやむを得ず戦った」というのであれば、その矛先をアメリカに向けるべきではないのでしょうか。なぜ中国に向くのでしょうか。中国は大きな被害国です。特に国粋主義者を自認するなら、なぜアメリカから屈辱的な属国扱いされていることについて何もいわないのでしょうか。
日本は敗戦から今日に至るまで、一貫してアメリカの言いなりで、独立国家とは言い難いほど卑屈にも平身低頭しているではありませんか。アメリカは世界ではじめて日本に原子爆弾を投下し、非戦闘員の国民を無差別に殺した唯一の国です。そして原爆を投下した爆撃機「エノラゲイ」を誇らしげに展示しているのです。
彼らが「あの戦争は正しかった」といい、日本の自尊心を叫ぶなら、中国・韓国に対してではなく、むしろアメリカに対して大声をあげるべきではないか。
一昨日、かって日本軍の軍属・軍人として徴用され、戦死した台湾人の遺族たちが御霊を自分たちに戻してほしいと靖国神社にデモをしました。
なんと、そこには右翼団体が最前線に並びそれを妨害していたのです。
(小泉首相の祖父は刺青で有名でしたが)
日本が再び軍国主義に戻ることになりそうな気配を感じる毎日である。